2020年2月13日にTPAM – 国際舞台芸術ミーティング in 横浜との提携事業としてシンポジウム&オープン・フォーラム「芸術活動への公的支援と表現の自由について考える」が実施されました。(概要はリンクをご覧ください)。その中の一部として、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」展示の中断をめぐって、憲法と芸術法の専門家に講演をしていただきました。
今後、日本国内で同様の問題が起きた場合に、立ち返ることが出来る資料となるよう採録したものを掲載します。
「公的芸術支援と表現自由 憲法の観点から」
スピーカー:志田陽子(武蔵野美術大学造形学部教授(憲法、芸術法)、博士(法学))
日時:2020年2月13日
場所:Kosha33
こんにちは、志田陽子と申します。私は武蔵野美術大学で法学を教えています。主に憲法と著作権法や肖像権などのアーティストが活動する上で知っておくべき法律を扱っています。まず私からは、表現の自由を保障している日本の憲法に照らしたときにこの問題はどう見えてくるのかという話をしたいと思います。
例えば芸術祭に作品を出品するような芸術表現をするアーティストたちは、当然に憲法21条「表現の自由」の保障を受けると考えます。そして、その自由な表現を美術館や芸術祭などの場所に出したところ、途中から展示を中止させられてしまった。これはアーティストにとってみれば、「表現の自由」が途中で妨害されたと体験されるはずです。ですから、アーティストがこれを「表現の自由」の侵害だと感じるのは当然のことでしょう。
ところが、法律の世界でこれを考えていくときには、少し問題が複雑になってきます。特に「検閲」だと言ってそれを非難する時には、注意が必要だと思うのです。今日はこの話をしようと思っています。
まず、あいちトリエンナーレで起きた展示の中止ですが、今説明のあった通り大変暴力的な抗議がきました。法律では脅迫罪にあたるような脅しの抗議が来たわけですね。それを脅迫として取り締まり、逮捕するということは実際に行われました。それとは別に、芸術祭の運営に於いては安全性を確保するために展示を中止するという判断があったわけです。
一部の政治家がこの作品は感心しない、この作品は中止してくれといった発言をしました。もし、この政治家の発言をそのまま受けて展示が中止になったとしたら、それはまさに検閲と言えるかもしれません。ですが、今回はそれとは違って話が複雑です。一部の政治家の発言に対して、一般の人たちが反応してしまった。その前から抗議がありましたが、その発言によって抗議、嫌がらせ、脅迫がエスカレートしてしまった。これに対して、この政治家に発言の責任を問うことができるのかというと、今のところ日本の法律ではそういったルールはありません。
しかし、展示中止については中止になった判断で良いということで終わりなのか。それでは中止させられてしまったアーティストや、その中止を含む芸術祭の全体にとっての「表現の自由」というものが、大変脆弱なのではないかという問題が起きてきました。
この、あいちトリエンナーレの問題では様々な要素や角度から、文化芸術政策における法的なルールが共有できていないという状況が見えてきました。文化芸術基本法という法律があるのですが、それをしっかりと共有しその法律に基づいてどう運用していくのかといった実践的なルールがまだ十分にできていないという課題が見えてきたわけです。
それから、この問題が起きた後に、他の自治体で映画祭が中止になったり美術展の作品の取り下げ要請があったりと、あいちトリエンナーレ以外の場所にも表現への委縮が波及してしまいました。それを止めていかないと、市民社会の「表現の自由」にも深刻な影響が出てくるのではないかということが考えられるわけです。
そこで「表現の自由」という角度からまず考えてみたいのですが、憲法が保障している表現の自由の元々の意味は、「国家からの自由」という意味なのです。アーティストが表現をしているところに国家、特に行政といった公権力が干渉しようとしてきた時に、ノーと言ってお断りできるという権利が「表現の自由」の一般的な意味です。公権力の関与お断りというルールなのです。検閲についても、公権力が検閲をすることをアーティスト側が断るということで、公権力は関わってこないでくださいというルールになります。
ところが今回のあいちトリエンナーレの場合はそれで話が終わりません。先程は悪役だった公権力が、今度は支える役割で芸術祭を支援する。芸術祭に税金からの実費を投入する、あるいは個々に美術館を立ててその美術館で作品を展示するというように、公権力がここで支える役を果たしているわけです。
この枠組みの中では、公の支援というのは下から支える支援という形で関与しているわけですが、ここで公権力の関与お断りルールを言い切ってしまうと、せっかくできた受け皿を要りませんといって拒絶することになってしまいます。公の力を借りようとすると何らかの物言いがついて、国または自治体の意向に合わせるように誘導されてしまう。だからこういう助成は当てにしないで、全部自分たちの自腹でやる。例えば、クラウドファンディングなどでお金を募りながら、全部自分たちでやるというのも、一つの考え方ではあります。しかし今回、展示中止はおかしいと声をあげたアーティストたちがそれを望んでいるのかというのは、私には疑問に思えます。
公が下から支えるこの受け皿を保ったままで、一度決まった作品については後から何か政治的な理由で中止を要請されたり、一般の人が中止してくれと言ってきたりしても、展示がそのまま継続されるという形で「表現の自由」が守られる。こういったルールが必要なのではないでしょうか。芸術を公的に支えるということを実践してきた国々では、こうしたルールが共有されていますが、日本では共有されていないのではないか。ここを確認することが重要なことだと思います。
あいちトリエンナーレでの展示中止問題というのも、名古屋市を含め愛知県がこの受け皿を作ったはずだった。そして様々な展示が行われ、様々なアーティストが参加をした。ところが、特定の政治家がこれは気に入らないと文句を言った途端、一般の人たちもこれは気に入らないと激しい反応を示した。その時、愛知県はどう振舞うべきだったのかという問題なのです。ところが、今回はあまりにもひどい暴力的な脅迫が来たので、一般の参加者の安全を守るために一時的に展示を中止するという判断がありました。法律家の立場から言わせてもらうと、こういった場合は、実は「表現の自由」や検閲の話を持ち出す必要はなかったのではないかと考えています。例えば、市が運営している電車が走っている時に、爆弾を線路や車内に仕掛けたといういたずら電話が入ったら、一時的に電車を止めて線路や車内を点検しますよね。点検はするけれども、危険物はないと確認したら当然また走らせます。物産展でも何でもいいのですが、とにかく自治体が引き受けた仕事に脅迫などが入ってきて一時中止をした。でも、安全確認をしたら当然再開する。本当はそれで済む話だと私自身は思っています。しかし、今回はそれで済まなくなってしまった。これは「表現の自由」に関わるということで、日本全国で議論される問題に発展してしまいました。それは多くの人がこの作品、この表現は気に入らないということで、作品内容に対して敵対的な発言とともに中止を求める流れが起きてしまったからです。
ここからは少しテクニカルな話になりますが、日本には文化芸術基本法という法律があります。公の芸術祭または公立美術館などの展示を支援するといった場合に、この公的支援が目的とすることは、文化芸術の基盤整備や環境形成です。一つ一つの作品については、表現者の自主性を尊重するとわざわざ言っているのです。ここをしっかりと理解すれば、先程のような事例のときも、本当は安全確認が済んだらまた運営を再開しようというのが当然に出てくるはずです。
しかしながら、この「表現の自由」と表現活動者の自主性を尊重するという精神が、どうも日本の中では十分に理解されてこなかったように思います。ここが自由であることによって、一般市民が様々な芸術に触れることができる。これが大変重要です。
エンターテインメントが大きな成功を収めるような市場だけですと、質は高いけれど経済的に成功する見込みが薄いような芸術作品というのは、なかなか一般市民の目に触れるチャンスが少ない。それに対してチャンスを作るというのが公的支援の意味なのですが、この時にその作品を好む市民と嫌悪する市民の両方が当然出てくるはずです。そこで議論が起きてくるわけですが、その議論が大変貴重なわけです。市民の賛否が分かれることは、悪いことではないはずですが、そこも日本では十分理解されていないように感じられます。日本ではどうしても賛否が分かれて言い合いになる議論というものは、悪いことであるかのように受け取られることが多いようです。そこは法律の話を超えて、日本の文化的あるいは精神的な土壌の問題だと思います。
ここで必要なのは、芸術作品が議論を誘発することは良いことなのだという合意を意識的に作っていくことです。そこに合意ができてくると、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重するということができてくるはずです。尊重した結果、賛否が議論となり喧嘩が起きたとアーティストを責めるのではなく、賛否両論を呼ぶような刺激的な作品が展示された、それは意義のあることだったと言えるようになっていくはずなのです。
文化芸術基本法そのものは文化政策を支える直接的な法律ですので、この後の作田知樹さんのお話(事務局注・同じシンポジウムにご登壇いただいた)に委ねることにしまして、私はこれを憲法が支えているというところをご説明しようと思います。
他のどの国でもそうなのですが、憲法というものは、その国と国民との間の関係を定めている法です。それ以外のいろいろな法律、例えば今日これから出てくる文化芸術基本法とか著作権法、刑法、民法などあらゆる法律の大まかな指針を憲法で定めています。
日本国憲法を見ますと、十三条に「幸福追求権」という言葉があります。これはアメリカの条文から多くを学んでいる言葉だと言われています。ここに一般の人たちの文化享受の権利があります。それから、「表現の自由」というものが二十一条にあります。ただし、これはさっき説明した通り、本来は公権力をお断りする権力として出発しました。公権力が芸術を支援すべきだということについては、日本国憲法には明文規定はありません。何も言ってないということは自由を徹底するために関与はしないというルールなのだろうか。それも一つの解釈として成り立ちますが、私自身も含めて、日本の憲法研究者は、そういう厳しい解釈はしていません。日本国憲法は、特に明文の規定を置いてない場合、そこは政策に任せるということで許容していると捉えます。ある表現を上から押さえつけるような関与はダメだということは「表現の自由」ではっきり言っていますが、下から支えて「表現の自由」をより活性化させるような支援であれば、憲法の目指す方向と合っている。そして、二十五条では健康で文化的な最低限度の生活というものを保障しています。これは主に、生活水準がとても低くなってしまった人に対する生活支援制度のことを言っているのですが、単なる物理的な衣食住を支えるというだけではなく、「健康で文化的な」という言葉があります。例えば、図書館や美術館などの文化のインフラを国が支えることで、一般の人がより気軽に芸術に触れるチャンスが出てくる。二十五条はそういったことを国や自治体の義務としてやれと命じているほどではないのですが、できる方向が望ましいと見ているだろうということが読み取れます。そこは憲法では政策に委ねる。やれと命じているわけではないですが、やると政策で決めたら大いにやってくださいという姿勢を取っていると考えられるのです。
まず議会では、文化政策で何をするか審議・決定をします。そして自治体はそれに沿って実際に実行するわけです。ここで芸術祭というものが実現します。こうした文化事業というのは、一度決まったら誠実に実行するというのが筋です。
ここで、賛否両論が起きたとしましょう。ここには、文化を受け取る一般の人々、あるいは税金を納めている納税者や、議会で議論をする議員を支える有権者がいます。こういった人たちが仮に特定の作品に対して反感を持ったとしても、それは世論として次の政策に活かされ、反映されるべきなのです。しかし、これは気に入らない、これを中止しろという方に行ってしまうと、民主主義の中で行われる文化政策の流れが逆流してしまうわけです。今回はそういった逆流による炎症のようなものが起きてしまいました。議論というものは、この循環の中で反省として次に活かしていくものだという考え方が重要ですが、今回はそれが見失われていました。特に名古屋市長の抗議活動というのは、そこを見失っているのではないかと私も新聞で書かせていただいたことがあります。
そして、「表現の自由」を尊重しようという文化芸術基本法の中に書いてあるルールには、検閲禁止と言う言葉は出てきません。ですが、わざわざ表現者の自主性を尊重すると言っているわけですから、ここでは検閲に当たることをするべきではないというルールも読み込むことができるのではないでしょうか。愛知県知事が、検閲に当たることはしたくないという発言を何度もしているのですが、それは大変に正しい見識であり、正しい発言だと思っています。
しかしながら、私が法律家として検閲という言葉を使うことに用心しているのは、これを検閲だと言い切ることが公権力による支援そのものを拒絶する意味になってしまうと、今後本当に芸術祭がなくなり、文化政策も萎縮していってしまうかもしれないからです。そうなって欲しくはありません。特に日本では、文化芸術を国が支えるという考え方が、本当の意味ではまだ定着していません。国の広報としてデザイナーや芸術家を起用するという発想はあるのですが、「芸術の自由」をこの枠の中で認めつつ援助をするという公的支援のあり方は、日本では定着したとは言えないのです。その中で公権力の関与お断りという法律論を全面に出してしまいますと、いろいろな自治体がそんなに面倒なものだったら最初からやらないで、税金や財政は他のことに使おうという方に行ってしまう恐れがあります。しかし、表現者やアーティストが、これは私たちにとっては検閲であり、耐え難い屈辱であるという実感の言葉をはっきり言っていただくことは、とても良いことだと思っています。なぜなら、法律家というのは「表現の自由」を実践したい表現者がいて初めてそれを理論や理屈で援護することができるのです。ここに表現をしたい人、またはこのような行政のやり方が嫌だという人がいないのに、法律家がお節介することは出来ません。ですから、表現者の人たちは法律的に正確な言葉を使う必要はなく、自分たちが思ったままを言っていただくのが良いと思っています。
そして、今回のあいちトリエンナーレでは中立性という言葉も時々語られました。芸術の内容が政治的に偏っていて中立なものではない。そういったものを展示していいのかという言い方がされました。ただ、この中立性という言葉は法律の原点に立ち戻ってよく考えると、行政が中立であってほしいという話なのです。決して芸術に対して中立を求めるというものではありません。
先ほどの話に戻りますが、議決された事業を誠実に行うと言うことが、行政の中立です。議会で政策の審議・決定が行われた。それに対して行政の人たちは個別には異論があるかもしれません。例えば行政の職員の中には、芸術祭に10億円を使うよりも図書館を建ててほしかったとか、あるいは生活保護制度をもっと充実させて欲しかったとか、個別に意見を持っている人がいる可能性もあります。ですが、決まったことは仕事として行う。これが行政の中立です。
芸術作品に中立性を要求するというのは、そもそも無理なことです。今あるステータスクオーに対して疑問を投げかける。それは芸術の営みとしてはとても重要なことです。決まったことには従うという中立性を芸術に要求したら、芸術は死んでしまいますよね。ですから、芸術に中立を求めるというのは無理な話なのです。今回はそこを多くの人が理解していなかったように思います。
少しややこしい話が一つあります。公民館や図書館というのは市民の要望に応える受け身な立場で仕事をします。市民からこういう集会をやりたいといったような要望が来た時に、それを受け身で対応していくことが中立ですので、中立性ということがわかりやすいです。しかし、芸術祭や美術館の場合には良いものを選別するというステップがどうしても出てきます。この審査や選別が検閲だという議論はありません。私自身も聞いたことがないです。そして、この選別は中立であることが必要です。ただし、ここでいう中立というのは、例えばある政治政党に関わっている作家だけが優遇されることがあってはならないといったような意味です。芸術作品に対して政治的中立を求めるという意味になるべきではありません。そしてその選別は一般市民よりも専門家の判断を信頼し委ねるべきだということで、審査員が必ずいるわけです。税金を使う行政の側は、専門家の判断を信頼して選別には直接関わらず距離を置くという考え方です。この考え方は主にイギリスなどでとられていると聞いています。日本でもこの方面の知識がある人は、「アームズ・レングスの原則」という言い方でこの考え方を取っています。しかし、今回のあいちトリエンナーレ問題ではこの考え方を知らない人が大変に多く、知らないままに発言してしまっていました。少数の声の大きな政治家が、これは政治的な作品であるという自分の見方を公言したら、世間もそれを共有してしまった。そもそも、平和の少女像や天皇の肖像を使ったコラージュが政治的な作品なのかどうか。その見方も、多様な見方がある中の一つでしかありません。本来は芸術作品には鑑賞の自由があり、それぞれの受け取り方に委ねられるべきものなのに、解釈が一つに決め付けられてしまったということは大きな問題があったと思います。
今回、展示中止になったことは検閲なのかという言い方で検閲という言葉が出てきました。今回のような脅迫があった場合、行政は安全確認のために必要であれば一時停止をすることがあっても、その後は元通りに引き受けた仕事を続けるべきだと、私自身も考えています。ですが、先ほども申し上げた通り、法律でこれを検閲と見なすには無理があると思っています。しかし、展示再開が決定した時に文化庁が補助金の不交付を決定しました。こういったお金の支援を取り払うというやり方は、憲法二十一条でいう検閲とは違いますが、検閲と大変似た心理的効果を生むものとして禁じるべきで、文化庁が後になってからそのような決定を下すことも禁止されるべきだと思います。
補助金が芸術を下から支えている先ほどの図を思い浮かべてください。補助金があるからこそ、作家は安心して実費をしっかりとかけて、大きな作品を作ることができる。ところが、後から少しでも問題があると補助金が出なくなるのではないかと思ったら、思い切った作品が作れない心理状態に追い込まれます。検閲ということを問題にするのであれば、補助金によってそういった心理操作をするということの方をしっかりと考え直し、議論する必要があるでしょう。
そして、今回はいくつか裁判が行われつつあります。しかし、裁判というのは最後の手段にすべきでしょう。対立ムードが深まると文化政策を担う行政の職員が萎縮してしまいます。芸術家からの強い要望に自分たちは答えきれないと考えて萎縮してしまうと、文化政策や文化行政そのものが萎縮してしまう恐れもあります。日本の場合はまだそれぐらいに基盤ができていないと言えるでしょう。ですので、裁判のルートよりは行政のルートで今日お話したようなことを啓発し、知識を共有していく努力を地道にやっていくことが必要です。そして補助金についてのルールも、もっときちんと整備する必要があります。
また、市民の理解というところは法律論ではないですが、議論があっていいじゃないかという市民文化があることが「芸術の自由」を大きなところから支えることになります。
そして、当事者である表現者の努力。こちらのON-PAMさんでは表現者同士の経験値を共有するという試みをしていらっしゃる。これも大変重要なことです。法律論で言えることは大変限られていますので、法律では手が届かない所を表現者自身が自分たちでルールを共有し、対応マニュアルなどを作っていくということは不可欠なのではないかと思います。