【レポート】第一回企画委員会「これからの公共劇場で、私たちは本当のところ何を作りたいのか?」@静岡県舞台芸術センター(SPAC)

2015.6.19

日時:2015年4月27日

場所:静岡県舞台芸術センター

 

4月27日に静岡県舞台芸術センターにて行われた第一回企画委員会「これからの公共劇場で、私たちは本当のところ何を作りたいのか?」について、下記のとおりレポートいたします。

※この日は9:00から舞台芸術公園施設の見学がありましたが、私は当日の朝に東京から移動し参加したため、11時からのシンポジウムからの参加となりましたので、シンポジウム以降についてレポートさせて頂きます。

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1.シンポジウム「これからの公共劇場で、私たちは本当のところ何を作りたいのか?」
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登壇者:
宮城聰(SPAC芸術総監督、演出家)
中島諒人(鳥の劇場芸術監督、演出家)
ダニエル・ジャンヌトー(ステュディオ・テアトル・ド・ヴィトリー芸術監督・演出家)
横山義志(SPAC文芸部)
平野暁人(通訳)

参加人数:32名

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■横山:
ON-PAMの紹介
この組織の素晴らしいところは、制作者同士が対等に結びつくところ。立場や組織を背負わずに、舞台芸術の制作をする同業者として対等に語り合って、それによって率直に互いの問題の共通点を探りながら語り合えるところが素晴らしい。

今回のシンポジウムのテーマについて
今年の演劇祭のテーマは「空気は、読まない」。SPACはクリエーションに重点を置いた劇場である。今回のシンポジウムでは「作品を創る」ということを主なテーマにしたいと考えた。最近、公共劇場と付き合いながら作品を創っている、または、助成金など公共のお金のことが共通の話題になることが増えていると感じている。
そこで、「社会のために何をするのか?」ということを考えなければならない機会が増えてきた。

20年前は「何をしたいから、劇場が欲しい、助成金が欲しい」ということが、明確だったので、国なり自治体と交渉して、仕組みを創ってきたという状況があった。国や自治体がやりたいことと、アーティストがやりたいことが必ずしも同じことではない、ということが自明の前提としてあった。

今では、企画書をつくる段階から「どのような公共性を持つか」ということを念頭におくことになっている。「作品が社会にとってどういう役割を持つか」ということを一番始めの段階から考えるようになった。それは良いことである一方、国や自治体がどのようなものを望んでいるか、ということを考えることは怖い側面もあるのではないか。

『メフィストと呼ばれた男』はその典型的な作品。ナチスから声をかけられて、国立劇場の芸術監督になり、地位を利用して仲間を助けられないか、内側からの抵抗も必要ではないかと考えて引き受けたが、結局は政権の代弁者にならざるを得ない状況になっていく。

そこまで極端ではなくても、今でも国や自治体のやりたいことを忖度してしまう状況はあるのではないか。
公共の仕組みを使うことによって、本当のところ私たちは何をしたかったのか、今何をしたいのか、ということを、主語を「私」にして語ってもらいたいと考えた。

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■宮城:
いま、なぜ『メフィストと呼ばれた男』という作品を上演したいと考えたのか。それは、プライベートで作品を創ることと、公共劇場で作品を創ることの違いとも関係している。
モノを創る立場としては、公共ホールで作品を創るから、公共のお金を使うから、といって、自治体が何をしたいかから考えるということは全くない。

自分のやりたいことがまずあり、お金を出す側に、どういう理屈を提示すれば、彼らがお金をだす必然性を生み出すか、ということを考える。逆からみると、お金を持っている側は、お金を出す理由を探している。その理由を提供する、と考えている。

創る人は、まずとにもかくにも創りたい。しかし、創るということに一生をかけていると、虚しくなってくる。なぜかというと、突き詰めれば突き詰めるほど、こんなことは自分ひとりにしか関係ないのではないか、作り上げたものを本当に分かるのは自分しかいないのではないか、という疑念、虚しさが膨らんでいくから。究極のところ、本当に観たいものが見えているのは、創っている本人だけではないか。

演劇の場合は、この営みに多くの人を巻き込んでいる。最終的に僕にしか分からない自己満足的な営みに付き合ってもらっている。
この虚しさではないところにいきたい、という気持ちが、突き詰めていくと「人の役に立ちたい」という気持ちになる。そのまま誰かの役に立っていると思いたくなってくる。
ここに一番の恐ろしさがある。

演出家は常に誰かの役に立ちたいと考えている。自分の営みが誰かの役に立っていると言われることほど怖いことはない。過去を振り返り、大きな悪に加担してしまったケースの全ては、自分が誰かの役に立ちたいという思いから行われていた。

お金を出す側が一番嫌がるのは、批判がくること。「なぜあんなことに税金を使ったんだ」という批判がくる。批判がくると、お金を出す側はビビってしまう。審査員は、必要性を感じてお金を出すことを判断しても、お金を出す側はなるべくそういう状況を避けたい。特に最近ではネット上などで「反日」といわれることを避けたい、という風潮があるように感じる。

「反日」よりも、表現の自由の方が大切だ、という風に言うと、ごく一部の人たちだけが愛好している(エスタブリッシュされている)、立派だとされている芸術の側の論理に聞こえる。分かる人にしか分からない、というようなものになっているのではないか。「芸術」と言われるものの大半は、人口比でいえば10%にも満たない人が大切だと言っている。残りの90%の人たちにとっては、そういうものがあるのか、という程度でしかない。例えば、ベートーヴェンですら、ベートーヴェンが好きで聴くという人は、1割もいない。学校で立派だと習っただけではないか。「立派な芸術」がわかる人たち、だけが、表現の自由が大切だ、と言っているのではないか。

50%を超える人が、面白いと思うもの、心惹かれるものを、アーティストや劇場の人が創っていかなければならないのではないか、と考えている。旧来の芸術は、特権階級のものではないか、と言われても仕方ない。もし今の芸術がなくなっても、多くの人は特段困らない。

「生きるための演劇」を創りたいとアーティストも考える。芸術を一部の人の独占物にしたくない、という誘惑になびいていた、という点においては、ナチスやドイツ共産党は同じような状況にあった。大政翼賛会なども案外同じようなものであったのではないか。生きていく上で必要なものを創りたいとアーティストは考えていて、後から考えるとファシズムを翼賛するようなものを創っていた。ここにもうひとつの危険性がある。

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■中島:
「美」は公共体と話をするときに、その価値を説明するのが難しい。「公立劇場」と「公共劇場」は必ずしも同じではない。鳥の劇場は、イチ劇団が廃校を活用して、公共性を掲げる劇場として、公共体から支援を受けるようになっていった。

今回、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」において発表した『天使バビロンに来たる』のチラシでは、「制度と経済に支配された我々は、人生を美によって再構築できるのか?」というキャッチコピーを用いた。それは、タイトルやアーティスト名を知っている人がいないから、コミュニケーションにならないのではないか、という観点から、現在の社会のあり方に疑問を持っている人たちに引っかかって欲しい。そういう人に演劇を通じて会話することが出来ないだろうか?と考えてこういうチラシを作った。

鳥取県は日本で一番人口が少なく、鳥取市も人口19万人しかいない。その人たちに人生にとって意味があるものとして「演劇」を提示したい。
個人の欲望が作品作りを支える。マスに対する顔のないサービスの提供=公共という風に捉えられがちである。対立項として社会があり、社会が個人に対して求めることがあり、それが抑圧的に機能することがあるのではないか。一方で、やらなければいけないこともある。社会のために、集団のために、仲間が生きていくために、家族のためにやらなければならないことなど、色んな層がある。そういったやらなければいけないことを、どうやってうまく探しだせるだろうか?
「半分空気を読む」ということをやる。今の社会においてやらなければいけないことはなんだろうか?と考えて具体的に出来ることを繰り返していく。

<スライドを見せながら、鳥の劇場の紹介>
現在、20名のメンバーで運営している。廃校になった小学校の体育館をリノベーションした。9月に開催している「鳥の演劇祭」。地域の人たちに協力してもらって、運営している。毎年300万円ほど寄付を頂いて活動している。劇場の中に小さなギャラリーを作っている。幼稚園の遊戯室だったところをホワイエとして使っている。カフェもある。
劇場のキャパは200席。舞台の広さは間口12m×奥行き12m。毎年クリスマスの時期に子供向けの上演を意識的に入れている。アフタートークを開催したり、終演後子どもたちに舞台上に上がってもらうことも。「小鳥の学校」という子供向けの事業を行っている。演劇を用いて、人材育成の事業を行っている。21世紀型のクリエイティブでイノベーティブな人材を作っていこう、ということでやっている。

今年で8回目になる「鳥の演劇祭」をやっている。国内外からの一流のプログラムを観てもらう、ということと同時に、地域の人たちがやっているコンテンポラリーダンスの作品や、地域の高校生の作品なども上演している。町を歩きながら、歴史を芝居仕立てで紹介するなど。空き家、空き店舗を使って、町中に色んなお店を出店してもらう。蚤の市をお店として出してもらうような試み。町が面として盛り上がっていくことを考えている。劇場だけだと演劇祭期間全て合わせてものべ3000人ほどしかキャパが取れないが、街と一緒にやることで1万人ほど人を集めている。教育委員会から依頼があり、演劇を使って新教員の研修をしている。アーツ千代田3331を使って、鳥取県に移住していく人を増やしていこう、というキャンペーンの依頼が行政からあり、子育て世代へ向けて上演した。

2006年から鳥の劇場を始めた、2015年度の予算で鳥の劇場の全面的な改修が行われることになった。民間のNPOが専有して使う建物が、公共のお金で改修されることは、鳥の劇場の公共性が認められたことになるのではないか。シンクタンクとして、文化政策に対して提言をし、実践をしていく役割を果たしている。

劇場にできることとはなにか?
・遠い時代、遠い場所との体験や感情の共有。
・ともに社会を創る他者との共感。
・現在という場所を相対化する。
・劇場としてメッセージを出していくことが大事だと考えている。

鳥取県出身の経済学者「宇沢弘文」さんが、「社会的共通資本」という考え方を提案している。
社会的共通資本は以下の三種類。
①自然環境
②社会的インフラストラクチャー
③制度資本(教育、医療、金融、司法、行政)
→劇場も制度資本になっていくと良いのでは? と考えている。
社会的共通資本は、市場や官僚に支配されてはならない。専門家により専門的見地により維持されていくべきものである。
劇場が機能していた、メディアが少なかった時代(演劇しかなかった時代)を神話化して、演劇の社会における役割を語るのは今の時代に則さない、と考えている。

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■ダニエル:
自分は非常にシャイで内向的なアーティスト。アーティストとなったきっかけは、一人でデッサンを描いていて、この世界で生きていくために、自分が思い描く美をデッサンを使って表現する、ということが必要と感じたから。なぜ演劇をやるようになったのか、というと、(ベケットの言葉を引用して)「自分が向いていることがそれ以外になかったからだ」。はじめから社会に対して働きかけたいと思って活動を始めたアーティストは多くはないだろう。ただ、僕らは、そういったアーティストも大事にしなければならないのではないか。

自分が芸術監督を務める「ステュディオ・テアトル・ド・ヴィトリー」はいわゆる劇場とは違う。独立したカンパニーとして50年前に設立され、非常に変わった経歴を持った場所である。パリにほどちかい、ヴィトリーという小さな町にある。小さな素朴なつくりの一軒家が元々の建物。この小さな建物の中に事務所やキッチン、劇場スペースがある。
スタッフも4名しかいない。訪れた人はお家に入っていくような感覚になる、そうすると中は思っていたよりは大きい印象を受ける。劇場は20世紀始めに使われていた会社の倉庫のようなところで、20m×9mのスペースがある。いわゆる劇場というよりも、作業場のような場所で、稽古場として使われていた。7年前に着任して以来、少しずつ設備を整えていき、だんだん劇場仕様にしてきた。非常に静かで落ち着いたところで、良い環境で作業をすることが出来る。

いわゆる公共劇場という感じではない。建物自体もある女性から借りている賃貸の物件である。珍しい点として、公共から資金を得ているが、自由な状態を維持出来ている。お金を出す側も自由であることを望んでくれている。稀有な公共劇場である。自由である、ということと、経済的に豊かではないことは結びついている。お金をもっともらうことになると自由度は下がってしまう。フランスの劇場システムにおいて独自の地位を占めている点は、上演のためではなく、主に創作をする場所として利用されていることである。こういう静かな場所で落ち着いてやれることが、シャイな自分にはとても合っている。

我々アーティストというのは、この時代と社会があって、必ず自分の内面から出発しなければならない。この分野においては、危険というのはどこからやってくるか、。危険は、あらゆる人が分かるものにしようという誘惑から危険がやっていくる。あらゆる人、ということになると、人々というのが総体として捉えられるようになる。そうすると他人の代わりに思考する、ということが始まる。それは商業的なコミュニケーション(広告)がやっていることである。そそのかしている。独裁的・政治的な言説と全く同じ。大衆という言葉を使って語り始める、というのは非常に危険である。大衆や人民というものは存在しないのではないか。

自分がアートの世界を志すきっかけとして、生きづらいと感じる多感な時期に、一人でデッサンをする、ということを通してしか、自分と世界との関係性をつくることができない、という時期があった。僕個人の人生が進んでいくにつれて、自分自身としての問題意識と社会の問題意識が通じていることがあることにだんだんと気づいてきた。
内藤礼さんは、自己を表現するために絵を描くわけではない、と言っていた。僕も同じである。芸術家として、一般の人とは違う特別な誰かとして創るのではなく、一人の人間として作品をつくっている。

彼女の作品の中には、「匿名性」のようなものがある。匿名性というのは、僕がやっていることも同じで、僕というアーティストを通して、表現されるべき問題意識がある。僕を媒体として立ち現れる。個人の内面から現れる意志、表現というものが、一方で個人的なものにとどまるのではなく、公的なものとして収斂していく。
人類全体というコミュニティに属する人間として、媒体となり、社会に還元していく、ということではないか。

僕のような孤独で本来はシャイな人間が、公共劇場というところで活動できる、ということ、個人の問題意識や主体性を使って仕事をしながら、コミュニティが自分を支えてくれると同時に、独立性を担保してくれる、という状況で仕事ができることを非常に幸運に思っている。

ちなみに、劇場のある市は共産党系の市政。フランス最後のコミュニストの牙城の一つ。僕が市から、この劇場の芸術監督に任命されたときに、市長は「私たちはあなたのやることに干渉することはありません。しかしとても期待しています」と言ってくれた。市長はその言葉を守ってくれている。市長は度々劇場に脚を運び、理解してくれている。圧力をかけたり、干渉してくることは一度もない。

フランスは文化予算の大部分が国や自治体から出ている。これは長い歴史的背景がある。それだけ国を統治する主体にとって、アートやアーティストが興味の対象であった。1980年代、90年代にミッテラン大統領のころから、反対制のアーティストも支援していかなければならない、と考え始めた。フランスはアーティストが自由で独立した状態で活動できる国と考えられているが、僕個人としては、演劇の世界において、ひとつの問いにとりかからなければならない、と考えている。

それは助成する、という体制からきている問題である。助成してくれる母体と対立関係に陥る、反発を買うようなことをするのは非常に難しい。目をつけられないことをやった方が良いのではないか、という空気が広がってきている。自粛、自己検閲の空気が忍び寄ってきているように感じている。
フランスの政治体制は考え方を変えてきている。公的なお金をなぜそんなにアートに割かなければならないのか、と考えるようになってきている。
ただ、そうはいっても文化に関連する分野が、フランスという国にとって大変な利益をもたらしていることも理解している。いわばフランスにおいては「文化」は脅かされていない。しかし、新たな「創作」「発信」「表明すること」は脅かされてきている、といえるだろう。

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■会場からの質問:
鳥の劇場を始める前から、どのくらい見込みやビジョンがあったのか?

■中島:
ビジョンはあった。最初に提出したプランはほぼ全て実現できた。
経済的な意味でどれくらい回していけるのかということは考えていなかった。
地域の人の支援や、演劇や劇場、アートの力を信じて期待してくれる人が多くいて、そういう人たちが支えてくれた。2006年時点で描いていたプランをほぼ実現できたが、これからの公共ホール、次に何をすべきかについては、いままさに模索している。

■会場からの質問:
「企画書演劇」的な話はすでに日本にもあるのでは?

■宮城:
文化庁の助成金がかなりついてくるのではないか、というような企画、あざとい企画が確かにある。ただ、大きなプロダクションが、地域で上演されることは、いけないことか? と言われるとそうでもない。
しかし、そういったプロダクションには、アーティストの表現欲がコアにない。いわば、悪い意味でのプロデューサー的な発想で作られた作品といえる。
プロデューサーという仕事を専門職とした場合、こういう企画を出せばお金がついてくるだろう、沢山の劇場から手が挙がるだろう、もしくは、企画書が否定しがたい、ということを考える方に傾くと思うが、そういうものは長続きしない。長い目で見て演劇界を盛り上げていくことにならない気がしている。
創る人間の内側にも危険性があるので、本当に賢い権力者は、創る人間の内側にあるものを利用する。

一般の人が「芸術」と聞いて、エスタブリッシュされたものとして想起する。「芸術」を既得権として特権階級が握っているのではないか、という感覚がある。事実、既にある「芸術」を楽しんでいるのはある程度恵まれた人たちである、という現実がある。まず芸術を楽しむ人たちは、所得が高い人たちが多い。

しかし、同時に世の中からの疎外感を抱えた人が演劇をやっている。既得権の側ではない、と感じている人が演劇に入ってきている。この国にはいるけど、居場所がないと感じていた人が、初めて自分の国が出来た、と感じた、という感覚。居場所がない、という感じは、創作の源泉にもなっている。「既得権としての芸術」への反感を抱えている。
そうすると特権階級以外の人間に必要とされるような作品を創りたい、という欲望が生まれ、ナチス政権はその欲望をうまく利用した。
アーティストの内側にある脆弱性、危険性とどのように向き合うのか、というのは難しい問題として残る。

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【感想】
以上が、シンポジウムにて話された内容の概要です。このシンポジウムを通じて、特に印象に残ったのは、ダニエルさんがおっしゃっていた「僕というアーティストを通して、表現されるべき問題意識がある。僕を媒体として立ち現れる。個人の内面から現れる意志、表現というものが、一方で個人的なものにとどまるのではなく、公的なものとして収斂していく。」という言葉でした。「公共劇場」において、アーティストが作品を作り、発表していくことの意義を、制作者ではなくアーティスト本人が語る上で、こうした説得力のある言葉で論理的に表明されたことは、公共体からのお金を集めるための「企画書演劇(ダンス)」へのある種の批判として、私たち制作者が真摯に受け止めなければならないとともに、アーティストとしてではなく、制作者という立場から「これからの公共劇場で、私たちは本当のところ何を作りたいのか?」ということを今一度、再考する必要を突きつけられた思いがしました。(奥野将徳)

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2.SPAC俳優によるトレーニングを見学
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シンポジウム終了後、お昼休憩を挟み、SPAC俳優によるトレーニングを見学しました。私が見学し、感じたことを以下にレポートします。

・足腰や体幹を鍛える動き、演技の土台となる身体を作ることを意識したトレーニングが効果的に取り入れられていた。
・暗闇の中、儀式的な様相を呈するトレーニングが行われていた。目からの情報を消すことで、音に集中し、言葉を唱える、または唱和することを通して、言葉による表現の幅を拡げることが意識されていた。
・筋力トレーニングのみならず、非常にゆっくりとした動き、特に限界までスピードを落とした歩行のトレーニングを通じて、動きの精緻性を高めるトレーニングが行われていた。
・様々な身体の状態、感情をもって、声の出し方やその時の身体の在り方を探り、表現力を高めるトレーニングが行われていた

以上のように、非常に論理的で具体的な俳優のためのトレーニングが、日々、行われることによって、SPAC俳優の基礎が効率的に高められていることを実感できた稽古場見学でした。

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3.「集団で対話する方法」を用いた話し合い
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ファシリテーター:平松隆之、白川陽一

ファシリテーターの平松さんと白川さんは毎冬にSPACにて「静岡から社会と芸術について考える合宿ワークショップ」を開催している。今回もその合宿ワークショップにて用いてきた「集団で対話する方法」を使い、参加者全員で意気投合し、生産的な話し合いを行うことを目指して、ディスカッションが行われました。以下にその内容を簡潔にレポートします。

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初めにディスカッションにおいて大切にして欲しいポイントとして以下の3点が伝えられた。
1.直感を大事にする
2.それって本当かな?と思う気持ちを大切にする
3.言葉の意味だけでなく、話し手の気持ちをよく聞く、耳を澄ませる

(前半)
平松さんがファシリテーターとして進行。「今、このメンバーだからこそ語り合いたいテーマを紙に簡潔に書く」ことが指示された。そのテーマをお互いに見せ合い、3〜5人のグループを作り、30分のディスカッションを行う。グループを作るときには、以下の3点に留意して、グループになる人を選ぶ。
1.自分と近いテーマの人
2.化学反応が起こりそうだな、という人
3.自分よりも魅力的なテーマを持っている人

それぞれグループに分かれ、30分のディスカッションの後、各グループから話しあった内容を簡潔に発表する時間が持たれた。以下、各グループからの発表を要約した。

◎グループ1で話し合われた内容
・作品において、アーティストの私的な創作欲が先立つものであり、そこで作られた作品が、公共性を持つのか?
・稽古場の段階で(スタッフや俳優が関わることにより)社会性を持つ。
・しかし、社会性は公共性とはイコールではない。
・公共的なお金を出す、ということが、逆の視点から見ると、反公共と見えることがある。
・そもそも作品が公共性・客観性をもつものとは考えずに、プロデューサーもイチ個人として意見を言うことが大切ではないか?

◎グループ2で話し合われた内容
・「演劇の魅力」とは何か?
・中学生の演劇部の部員をどのように増やせるか?
・一般的な演劇のイメージ=ダサい、難しい
結論は出ずに終了。

◎グループ3で話し合われた内容
・舞台芸術の価値は原理的に言葉で語り尽くせるものではない。
・アーティスト自身が公共性を語ることには限界がある。
・制作者が価値を作る=アートマネジメントの必要性。
・アートが媒体となって、ある公共的な価値を伝える。

◎グループ4で話し合われた内容
・芸術家としての明確な表現欲求がある。
・同時に、芸術の価値をどうはかることが出来るのか?
・申請書・企画書は作品に対してロジックを作るもの。
・コアになっている芸術そのものの価値をどのように判断するのか?

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(後半)
白川さんがファシリテーターとして進行。
「人が前に進めてみたいプロジェクト」「行動ベースのプロジェクト」をみんなでお互いに応援しあい、話し合う。
「あなたが進めていきたいプロジェクトとは何ですか?」という問いに対して、志しのある人が先着順にプロジェクトを挙げていく(先着5名)。

以下の5つプロジェクトが挙がった。
(1)なるべく仕事をせずにいい仕事をする
(2)上田市に小さな劇場をつくる
(3)次世代の芸術監督を育てる
(4)舞台芸術の公共性(言葉にしにくいが、言葉にしてみる)
(5)学校で演劇を体験する(観劇ではなく)

以上のプロジェクトに興味のある人が集まり、以下の3段階に分けて、ディスカッションが進められた。
(1)あなたのプロジェクトで本当に大切にしたいことは?
(2)あなたのプロジェクトに欠けているものは?
(3)あなたが取りたいファースト・エレガント・ミニマム・ステップとは?

それぞれのプロジェクトについて話し合われた内容を以下に要約しました。
(1)なるべく仕事をせずにいい仕事をする、について話し合われた内容
・単純にもう少し休みたい、という気持ちがある
・しかし、目指しているところは落としたくない
・舞台制作者の働き方は、ON-PAMの年間テーマである「新しい制作者像」とも通じている
・「なるべく仕事をせずにいい仕事をする」ためには理念・ビジョンを共有する、作っていくことが重要
・作品を通じて社会に訴えかけていくこと
・「創造的な仕事をすること」が「いい仕事をすること」に繋がる
・そのためには作品をもっと観る必要がある

(2)上田市に小さな劇場をつくる、について話し合われた内容
・上田市の人口は15万人
・演劇に関わる人を増やしていきたい
・中心商店街がさびれて、スペースがある
・そのスペースを活用して、公共ホールでは出来ないことをやりたい
・市には劇団が2つしかない
・まずは演劇をする人を増やしていくことが大切
・文学カフェや初心者向けWS、戯曲を読む会などをやることが必要ではないか
・ファーストステップとして、ご飯会をするのはどうか?
・異業種交流会のようなものではなく、ご飯をお互いに作って提供する
・そのことが演劇的な行為とも重なり、人が集まる場をつくることにもなる

(3)次世代の芸術監督を育てる、について話し合われた内容
・そもそもどうしたら現れるのか?「育てる」ということで良いのか?
・芸術監督に求められるものとは?
・若い世代は経験値が足りない
・先人の仕事、背中を見る場が必要
・演劇祭の期間、サブ・アーティスト・ディレクターという枠組みをつくるのはどうか?
・芸術家のインターン枠をつくっていきたい

(4)舞台芸術の公共性(言葉にしにくいが、言葉にしてみる)、について話し合われた内容
・「言葉にできないもの」を大切にした
・「言葉」によって出来ているシステムからこぼれおちている人がいる
・排除されているシステムに入れようとすること自体に無理があるのではないか?
・行政の言葉をただ学ぶだけではダメ、欠けている言葉があるのでは?
・既存の言葉を脱臼するような言葉や「〜ではない」というような規定の仕方、システムからはみ出すような言葉の使い方をしてみる
・目標:公共体と公共を取り違えさせるような言葉を使わないようにする、いま使っている言葉を違うように使ってみる
・公共体の論理からこぼれおちるものをいかに名指していくのか、が課題
・解決策として、まずはエッセイを書いてSNSに載せてみる、もしくは、そもそも言葉にするのをあきらめる

(5)学校で演劇を体験する(観劇ではなく)、で話し合われた内容
・「演劇をやる」といった時に「作品をつくる」ということをしたいわけではない
・学校は「正解」を求める場である
・「正解」がないことがたくさんあることを体験させる
・企画書や理由付けが少ないように感じている
・演劇=PLAY=遊び → 自由にさせると沢山アイデアが出てくる
・まずは2時間ほどのプログラムをつくろう
・プログラムの名前は、子供に向けては「おやつクエスト」、大人に向けては「個性を引き出すためのプログラム」というように使い分ける
・シチュエーションを作って、演劇をやらせる

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【感想】
以上のような活発な話し合いが、全く異なる立場、背景をもつ制作者や舞台芸術に関わる人たちが、協力し合いながら、積極的に行われました。こうしたお互いが意見をぶつけあい、生産的な話し合いを行う「場」が持たれ、自身の考えが深まるとともに、新たな視点を得ることができることに、ON-PAMがあることによって産み出される豊かさや意義を実感させられた会でした。

奥野将徳