【レポート】第3回テーマ委員会「制作者とアーティスト、その関係性の未来」@芸能花伝舎(東京)

2015.12.11

日時:2015年10月2日

場所:芸能花伝舎(東京)

舞台芸術制作者オープンネットワーク[ON-PAM]の第3回目のテーマ委員会「制作者とアーティスト、その関係性の未来」が開催されました。

≪ON-PAMテーマ委員会≫
年間テーマ:「あたらしい制作者」像を考える
第三回:制作者とアーティスト、その関係性の未来

【トーク・セッション登壇者】
加藤弓奈(急な坂スタジオ ディレクター)
中村茜(precog代表取締役)
細川展裕(株式会社ヴィレッヂ会長)
宮永琢生(ままごとプロデューサー)

司会:伊藤達哉(ゴーチ・ブラザーズ代表取締役)

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伊藤:
ON-PAMが年間を通して開催するテーマ委員会の今年の年間テーマは“「あたらしい制作者」像を考える”です。第3回目のタイトルは「制作者とアーティスト、その関係性の未来」としました。計4回のシリーズで12月に第4回が控えています。1回目は4月に東京・亀戸で「制作者とアーティスト、その関係性を問い直す」を開催。2回目は「「公立劇場の制作者」の現在地~行政と表現のはざまにて」を6月の京都で開催しました。3回目となる今回、「民間劇場の制作者」というテーマも考えたんですが、4回目につなげることも踏まえ、今一度、制作者とアーティストとの関係を深く掘り下げてみようと思い、私にとっては恩師に近いかもしれない細川展裕さんと、今現役でご活躍されている3人にお越しいただきました。それではおひとりずつ、アーティストとの関係を中心にお話を伺っていきたいと思います。宮永さんから、よろしくお願いします。

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■宮永琢生(ままごとプロデューサー)
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宮永:
劇作家・演出家の柴幸男とともに、2009年に立ち上げた劇団ままごとでプロデューサーをしております。もともとは2007年に柴とともに平田オリザさんが主宰する青年団という劇団の演出部に入団したことが始まりで。柴は学生時代に書いた戯曲『ドドミノ』で第2回「仙台劇のまち戯曲賞」を受賞して、その時に審査員だった平田さんと知り合ってはいたんです。

彼は学生時代から劇作家で、演出家としてのキャリアは殆どなく、演出の勉強をしたいと思っていたんですね。でも、いわゆる小劇場の劇団を立ち上げて、自分たちでゼロからやるという選択肢もあったんですが、学生時代と同じようにまたそれを繰り返すのはちょっとしんどいなと。ちょうどその頃が2006年くらい。青年団演出部の多田淳之介さん(東京デスロック)、松井周さん(サンプル)、吉田小夏さん(青☆組)など、いま第一線で活躍されている劇作家・演出家がちょうど出はじめた頃で。五反田団の前田司郎さんも近いところにいらっしゃいましたね。

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「最近名前をよく聞く劇団が、平田オリザのところにいるらしい」と肌で感じていまして、柴が「青年団の入団試験を受けてみようかと思う」と言ったので、「あ、じゃあ一緒に受けてみようか」みたいな流れで。今、客席にいらっしゃる、こまばアゴラ劇場・青年団の木元太郎さんもその時に同期で青年団に入団しています。木元さんは当時小指値(現・快快)の制作もしていたので、お互いの活動範囲が近かったんですよね。よく意見交換をしたり、一緒に芝居を観に行ったりしていました。

青年団に入団後、約2年間で劇団内で2本ほど作品をつくって、2009年に柴がようやく「劇団を立ち上げたい」と言い出しまして、最初に『わが星』という作品を作って発表したら、タイミングも合って岸田國士戯曲賞をいただきました。そして翌年、青年団から独立してままごととして劇団活動を始めました。法人格(一般社団法人mamagoto)を取得したのは2013年です。青年団ではあまり経営的視点を勉強できなくて、自分たちでもそのノウハウをわかってなくて。あまり知らないまま外に出ちゃったもんですから(笑)、独立はしたものの、どうやって継続した活動をしていくかを悩みながらずっとやっていたんですね。

岸田國士戯曲賞を取った後は、いわゆる小劇場の劇団がたどるルートとして、海外市場を開拓をするのか、強度のある作品を作ってレパートリー化していくのか、商業的な仕事にシフトしていくのか等、様々な選択肢があるなか、僕らはひとまず青年団をお手本に、作品をレパートリー化して全国の公共ホールに買い取ってもらったり、助成金を取りながらツアーして自分たちの作品を全国のお客さんに観ていただいたり、といった活動を中心に。法人化する前の2012年までは主にそういう活動が多かったですね。収入面で徐々にお金が動くようになり、税金も含め、このままではまずいなということもあり、2013年のあいちトリエンナーレに招聘されたことをきっかけに法人化しました。

5人の劇団員のうち、柴が代表理事で、私と俳優の端田新菜の2人が理事。あとの2人は法人には入っていません。社団法人で、会計は今も端田がやってくれていて、全然やってなかった税務処理については(司会の)伊藤達哉さんに相談して、伊藤さんの大学時代の同期だったという会計事務所の方にお世話になっています。

2013年からは自分たちの活動がちょっと変わって来ました。劇場作品を継続して作り続けていた2012年、あるきっかけで、お客さんの顔を見失ってしまった瞬間があったんです。感覚的なことなんですけど、柴とも近いところがあったと思うんです。2013年の1月3日だったと思うんですが、「どうする?これから」と話し合ったんです。2人で話すことなんてめったにないんですが、2年振りぐらいに呼び出して話したんですよ。その時は僕の方が結構参ってて、「今までみたいに作品を作ってレパートリー化して回していくのを続けるのは、ちょっと無理かも」と僕の方から彼に言いました(笑)。そしたら柴から「じゃあ好きなことやったらいいんじゃないですか」と結構サラっと言われて。

そのタイミングで偶然、横浜の「象の鼻テラス」で演劇作品を作ってほしいという依頼があったんです。「象の鼻テラス」は無料の休憩所になっていて、普段から犬の散歩だったり、家族連れで子供を遊ばせに来たり、カップルがデートしに来たり、本当に色んな人が来る場所なんですね。そういった空間を閉じて劇場空間にして、そこで演劇を観てもらうのは何か違うなと。そこで「演劇とすれ違う」というコンセプトを立てました。普段からこの空間を使っている人たちに、如何に演劇にすれ違ってもらうか。「観る/観られる」という関係性じゃない演劇の体験の仕方をどうやったら生み出せるか、といったことを劇団で模索するようになりました。

この活動は今も毎年11月、12月に継続しています。また、2013年の瀬戸内国際芸術祭に呼んでいただいたのをきっかけに、小豆島でも毎年活動するようになりました。それも島に劇場があるという状態じゃなかったので、町中でやるしかなかったんです。小さな港町に、1回期につき1ヶ月〜1ヶ月半ぐらい長期間滞在して作品を作りました。町の人のいろいろな話を作品に取り込み、町中で発表する「港の劇場」というプロジェクトです。「港の劇場」と言ってはいますが実際に劇場はないので、僕らがパフォーマンスを始めた瞬間に、その場、その空間が、そのまま劇場になるというコンセプトです。瀬戸内国際芸術祭は3年に1回あって、来年もまた呼ばれています。来年も劇場型作品ではない演劇作品をどう作るのかというアプローチをしていきたいと思っています。

このように劇団としての作品創作の方法が変わってきたんですが、経済的な側面から言うと法人化こそしたものの、いわゆる滞在型制作は予算が非常に少なくてですね(笑)。具体的な数字を言ってしまうと、僕らが劇場型の新作を作る場合の予算は1000万円ぐらいあれば充分なんですが、その10分の1ぐらいですかね。2013年の瀬戸内国際芸術祭でいただいた予算は140万円でした。それでも劇団としては「やりたい」と。僕も柴も新しい演劇表現に何か見出せるものがあるんじゃないかと思って、それを選択しましたね。140万円しかないので何回も往復はできないし、もともと貯金もないしギャラも全然ない。でもセゾン文化財団のジュニアフェローの助成をいただいていたので、会期をまたいで2年分の約200万円(1年間で100万円)を突っ込みまして(笑)、なんとか340万円の予算でやりました。依頼側から言われていたのもあり、春、夏、秋の3会期の間、なるべく長く滞在していたんです。

伊藤:
3会期全部の予算として340万円?

宮永:
はい。でもどの会期に行ってもいいし、1会期だけでも、2週間だけでもいいということでした。やりたかったことと予算のバランスが取れてないですけど(笑)。大きかったのはそこで培った島の人たちとの関係性。さらにもっと大きいのは、小豆島町との関係でした。町長がものすごく僕らの作品を気に入ってくれたんですよ。町長と直接話せる関係になって、そこには平田オリザの関与もあるんですが僕らは青年団出身で身内ですから、それもうまく利用しつつ。結果的に2014年、2015年と小豆島での活動を継続させてもらい、今年は『わが星』を上演できました。どこから予算を引っ張ってこようかと悩んでいた時に、まず町長に相談したら、それぞれの年に町の予算でやれるぐらいのお金を出してくれたんですよ。2014年は町の予算で約250万円、『わが星』をやった今年(2015年)はその倍、出してくれました。凄いですよね、一自治体がそんなにも。

でも町長からは「今年だけだよ」と言われたので、来年の瀬戸内国際芸術祭については、予算がそう多くない中でどうやってプロジェクトを経済的にも成立させられるか、これが今のすごく大きな課題です。いわゆる演劇に出ている助成金の枠に、僕らの活動を当てはめようとしても全然できなくて…。芸術文化振興基金も全然当てはまらない。たとえば自分たちの活動の枠組みを現代アートの方に寄せて行くとか、活動の幅を演劇に限定せずに活動資金を探していかないとなぁと思っています。

伊藤:
領域をまたがって境目なく作品を作っていくのが、今の柴君やままごとの活動だよね。

宮永:
はい。だから演劇界からは特殊に見えてると思います。岸田國士戯曲賞を取った劇作家が全然新作を打たないし、東京にいないし、「アイツらは何やってるんだ?」と。今も柴は長野に1ヶ月滞在して、現地の俳優と一緒に作品を作るという滞在型の創作をやってます。これは劇団ではなく柴が個人で行ってるんですけど。

伊藤:
宮永君の今の課題は、何といっても経済かな?

宮永:
まずはそうですね。この2年ぐらい収入的には半分ぐらいに激減してる。劇団だったらなんとかなるんですが。法人化しても給与制じゃないので、なんとかやれてますけどね。平田(オリザ)さんもよく言いますけど「劇団じゃなかったらつぶれてるよ、アゴラ(=こまばアゴラ劇場)だって」って(笑)。

伊藤:
ぜんぜん笑えないけどね(笑)。

宮永:
はい(笑)。

伊藤:
制作者とアーティストの関係について聞きますが、宮永君と柴君は、どうやって一緒にやって行こうという話になったの?

宮永:
柴とは最初に青年団で出会ったわけじゃないんですよ。長くなるんですが、8年ほど前に亡くなった僕の父の宮永雄平の話からします。父はもともと演劇集団円にいて、辞めてから商業演劇の脚本・演出をやってたんです。亡くなる前の10年間ほどは藤山直美さんや舟木一夫さんの舞台の演出をやっていた。それで僕は父の“鞄持ち”みたいなところから演劇界に入ったんです。「いわゆる小劇場で自分たちの劇団を作って楽しくやってると、すぐに30歳になっちゃうから、まず俺に付いて勉強しろ」と父に勧められて。新橋演舞場や明治座の稽古場について行って、頼まれたらたばこやコーヒーを買いに行くとか、大学3〜4年の2年間くらいはそんなことをしてました。

その頃、日本大学芸術学部で教授をされていた串田和美さんから、「宮ちゃん(宮永雄平)、最近売れてるんでしょ、ちょっと大学に来て教えてよ」と父に声がかかった。それで僕も一緒に日芸に行ってたんです。半年くらいかけて学生と一緒に作品を作るという授業で、その有象無象の生徒たちの中に、柴君もいた。実際、彼がその授業を受けていたわけではなかったんですが、その授業を受けている仲間の中にいて、偶然知り合って。当時、僕は女優の黒川深雪さんと組んだユニット(toi)をやっていて、作家がいなかったので探していたら、柴君の短編作品を偶然観たことがあった黒川さんが「彼と一緒にやってみたい」と言ったんです。だから、僕が「柴君と一緒にやりたい」と言ったんじゃないんですよ。黒川さんがそのひとことを言わなかったら、たぶん僕は今、柴とは一緒に仕事してないですね。

その時、柴はいわゆる既存の戯曲の書き方とは違う、ヘンテコリンなことをやってました。20冊ぐらいの小説を切り張りして再構築したものを台本だと言って出してきたんです。なんだかよくわかんなくて(笑)。演出は僕らが自分たちでやってたので、「柴君、わからないことがあるから、ちょっと来てくれない?」と言って稽古場に呼んで一緒に作ったのが、本当の意味での僕たちのスタート。2006年でした。その作品が面白かったので「一緒にやってみませんか」と話したら、その時に柴君が「青年団を受けようと思う」って言ってたんですよ。「じゃあ俺も受けよう」となった。僕はそこで青年団の制作的なことも含め、平田オリザのプロデュース術を勉強して、柴君は戯曲と演出を平田さんから自分なりに勉強していったという感じでしょうか。

伊藤:
ありがとうございます。続きまして、加藤さんお願いいたします。

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■加藤弓奈(急な坂スタジオ ディレクター)
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加藤:
急な坂スタジオのディレクターの加藤弓奈です。横浜にある急な坂スタジオという演劇やダンス、舞台芸術のための稽古場の運営をしています。2006年10月に開館し、立ち上げメンバーは今一緒に登壇している中村茜さん、ON-PAMの皆さんはよくご存じの相馬千秋さんです。アートネットワーク・ジャパンとSTスポットという2つのNPO法人がスタッフを出し合う形で最初は始めました。横浜市が持っている古い結婚式場をリノベーションして活用しています。横浜市からの運営委託で1年間、一定の額の補助金をいただき、利用料収入を追加する形で運営をしています。

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2006年の立ち上げ当初から、レジデント・アーティストという形で急な坂スタジオを優先的に無償で使ってもらうアーティスト制度を取っています。最初の年にレジデント・アーティストをお願いしたのはチェルフィッチュの岡田利規さん、ニブロールの矢内原美邦さん、中野成樹+フランケンズの中野成樹さんの3人でした。私は当時、STスポットの館長として運営に関わっていたんですが、2010年4月にSTスポットとネットワーク・ジャパンから独立する形で、NPO法人アートプラットフォームという法人を整えて、その代表理事に就任すると同時に、2010年の4月に急な坂スタジオのディレクターに就任しました。その年にレジデント・アーティストもちょっと入れ替えて、ままごとの柴幸男さんにお願いしました。2009年に『わが星』を観に行って、その後すぐに(登壇者の)宮永さんに「レジデント・アーティストになりませんか?」とお声掛けしたのをよく覚えています。

2010年からは柴幸男さん、岡田利規さん、矢内原美邦さんをレジデント・アーティストとして継続し、その頃からサポート・アーティストという形で、レジデント・アーティストよりもうひとつ下の世代の人たちをゆるやかに支援していく枠組みを始めました。2013年度にホームページをリニューアルする時に、しっかりと「この人たちを応援します」と公式に明言したんですけれど、実際には2010年ごろからゆるやかに支援はしています。レジデント・アーティストが最優先で無償、その次に一般利用の方とのバランスを見つつ、サポート・アーティストになるべく優先的に利用料を少しディスカウントする形で稽古場を使っていただいています。今のサポート・アーティストはモモンガ・コンプレックスの白神ももこさん、マームとジプシーの藤田貴大さん、振付家・ダンサーの酒井幸菜さん、木ノ下歌舞伎の木ノ下祐一さん、Baobabの北尾亘さんの5名です。

プラスアルファで坂上がりスカラシップという事業を、横浜市の財団とSTスポットと急な坂スタジオの3館で、開館当初からずっと続けています。今の対象者は快快の野上絹代さんです。私が自分で直接制作を担当しているアーティストもいるんですけど、その人は今は急な坂スタジオは使っていないです。私自身が直接アーティストとやりとりするよりは、アーティストと制作者との関係を急な坂スタジオという場所を用意することで、すごく近い距離から見ることができるのかなと思っています。制作者ってたぶん、アーティストそのものやカンパニーそのものにコミットする人と、フェスティバルみたいに作品にコミットして仕事をする人と、劇場みたいに場所を媒介にしてアーティストと仕事をする人、という3種類ぐらいに分かれると思います。またはそれを横断的やっている方もいると思うんです。

私の場合はお稽古場で、作品を発表するわけではないので、たぶん劇場の方ともちょっと違う距離感でアーティストやアーティストを支える制作者と仕事をしているなぁという風に思っています。

伊藤:
ご自身が制作しているアーティストと、運営している場所(=急な坂スタジオ)との関係性についてはどういう風に整理しているんですか?

加藤:
もちろん一人ひとりについては偏った関係かもしれないですが、やっぱり急な坂スタジオに居るときは偏らないというか。「急な坂スタジオとはどんな場所なのか」を全面的に考えているので、一対一で考えないという風にしているんですね。急な坂スタジオの運営側に立つ時は、私とアーティストが一対一にはならない。もちろん私が個人的に制作をしている時はアーティストと一対一でがっつりやります。

伊藤:
自分が担当しているアーティストの制作をする時は、急な坂スタジオのことは考えないようにするんですね。スタジオからはそれが良しとされているんですか?

加藤:
その期間はなるべく、午前中に急な坂スタジオの人と仕事をして、午後は「すみません、制作さんになるので、後は任せた!」と言って、居なくなります(笑)。でも大きい公演は年に1回ぐらいなので、その期間だけです。

伊藤:
そこはバランス良くやれてるんですね。

加藤:
そうですね。

伊藤:
急な坂スタジオの場所としての理念はどういうものですか?

加藤:
ずっと、「稽古だけじゃない稽古場」と言っていて。制作者だったらアーティストに作品を作ってもらいたいし、劇場だったらアーティストに作品を発表してもらいたい、となると思うんですけど、急な坂スタジオの場合は「何もしないでいい時間をアーティストに提供したい」と思ってます。柴さんにレジデント・アーティストをお願いする時も、「こちらから何かをやってくださいということは言いません。もし何か我々が持っていることや場所が、ままごとや柴さんの役に立つと思ったら、その時は協力するので言ってください。それ以外はただのお稽古場として使ってもらうのでもいい。打ち合わせに使ってもらってもいいし、ただフラっと来るだけでもいいです」と。

伊藤:
ただフラっと来るだけ、っていうのはいいですね。すごくいい環境を提供できていると思います。公立の施設ですから「誰が、なぜ、それ(=アーティスト)を選んでるのか」という平等性とのバランスは、横浜市の方でルール化されていたりするんですか?

加藤:
されてないです。だからよく聞かれるんですよ、「どうしたらレジデント・アーティストになれますか、どうやったら選んでもらえますか」って。そのへんは「私が勘でお願いしてる」ってぼやかしてるんですけど(笑)。「この人だったら!」と自分からアタックするので。

伊藤:
すごい(笑)。

加藤:
アーティストの実績が急な坂スタジオの評価にもなるんです。ありがたいことにバランスよく、色んなアーティストに居ていただけています。たとえば木ノ下歌舞伎の木ノ下さんは、なぜか京都が拠点なのに横浜の稽古場のサポートを受けている。あるいは(ままごとの)柴さんは小豆島で活躍している。岡田さんや矢内原さんが海外で公演を重ねていたり、(マームとジプシーの)藤田さんが日本中、そして海外を回ったり。アーティスト個々の活動実績が急な坂スタジオを支えてくれています。

伊藤:
なるほど、そのおかげで突っ込まれにくいんですね。

加藤:
「皆、なんか色々やってるらしい、じゃあ、いっか」となる(笑)。でも「なぜその人なの?」と思っている方はいらっしゃると思います。

伊藤:
さきほど宮永君は、青年団では経営を学ばなかったとおっしゃっていました。急な坂スタジオの場合、経営は実際の数字を見ながら学ぶんですか?

加藤:
急な坂スタジオはNPO法人で横浜市から補助金を頂いているので、決算報告は誰でも参照できる状態になっています。市からお金を頂いているので「そんなに儲けてるなら返してよ」と言われないように、大きく儲けはしないけど、マイナスにはならないようにする。そういう収支のバランスは年度ごとに異なるので、すごく気にするようにしています。利用率を上げなきゃいけない時は、なるべくレジデントアーティストとサポートアーティストのバランスを減らしたり、レジデントアーティストとサポートアーティスト用で一般には貸し出してない一部屋を、直前になって一般用に出したり。大きな額ではないですけど、どのぐらいのお金が動いていて、今、何が必要なのかは極力気にしてますね。あとは制作者をスタッフとして雇うという風にシフトしていっています。

制作をしながら多少の収入は得ているけれど、それだけでは安定していない制作者たちをアルバイトスタッフとして雇用するんです。制作者とアーティストの関係を把握した上で、急な坂スタジオが1人の制作者を介する形で、公演活動やアーティストのサポートをすることになります。

伊藤:
アーティストのみならず、制作者の拠点にもなっているのですね。続きまして、中村さん、お願いします。

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■中村茜(precog代表取締役)
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中村:
私は学生時代に加藤弓奈さんと一緒にSTスポットのスタッフをやってまして、そこで今一緒に仕事をしているアーティストと出会っていきました。チェルフィッチュの岡田利規さんであり、ニブロールの矢内原美邦さんであり。そこから広がっています。もともと私は企画をやりたくて、アーティスト専属のプロデュースをしたいとは考えていなかったんですが(笑)、まず岡田さんが2004年に岸田國士戯曲賞をいただいて、それまではほとんどSTスポットが彼のプロデュースしてたんですけど、個人的にサポートする人が必要だということになったんです。

あとは2004年の森美術館のオープニングで日本デザインセンターの紫牟田伸子さんや、ダンス批評の桜井圭介さんがキュレーションに関わっていらした「六本木クロッシング展」があり、その一環である「ダンスクロッシング」の制作の依頼が来たりして。STスポットでできたネットワークがいろんな形で仕事に結びついて、precog(プリコグ)をやることになりました。もともとprecogをやっていた小沢康夫がTPAMの企画をやっていて、それを一緒にすることでもつながっていきました。

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アーティストと仕事をする時に一番考えているのは、フィフティー・フィフティーでやりたいってこと。「アーティストがやりたいことを丁寧に実現するだけ」というのは私にはできないから(笑)。意見を言い合いたいし、お金の面でも私が責任を持ちたい。それまでのカンパニーのスタイルといえば、演出家が経営もやるところが多かったと思うんですけど、作品を作るのが演出家の仕事だとしたら、お金を集めてお客様をきちんと入れることが制作者の仕事だという風に考えてました。そういう違う観点からフィフティー・フィフティーで力を持ちながら、議論をして、一緒にやっていけるのであれば、岡田さんともできるかな、と。

伊藤:
岡田さんに最初からそういう話をしたの?

中村:
そうですね。一緒にやっていくに当たっては、そうさせてほしいという話をして。だから岡田さんは広報に関しては一切口を出さない。どこに営業をして海外のツアーが決まるのかも、全部私の裁量にまかせてもらって、やってきました。一番大きかったのは、宮永君の話にもありましたけど、セゾン文化財団の助成金をいただいた2006年です。ちょうど岸田國士戯曲賞受賞作『三月の5日間』の再演の上演中に「セゾンに受かった」という知らせがあって(笑)、海外のディレクターも結構来てくれていて。我々は何の知識もなかったんですけど、「日本にいてもおそらくこの先、食えないだろう」と。

伊藤:
おお、すでに思った。

中村:
はい、すでに思っていて、私はどっちかというと演劇よりもダンスの方が強かったので、海外に進出しているダンスカンパニーの動き方が見えていたんです。そっちだったら活路が開けるのかなと思って。毎年3年間、計300万円入るセゾンの助成金を、営業活動によって有益に使うには…と考えて、岡田さんに「私に使わせてくれ」って話をしました(笑)。もちろん他の公演にも使いましたけどね。海外に出す資料を翻訳したり、私自身が海外に行ってフェスティバルを見て話をしたり、そういう営業費に使わせてもらったんです。50万円ぐらいですけどね。セゾンの助成金を担保に海外展開を考えていけたことが、今に一番つながってる大きいことだったと思います。

今は他のアーティスト、例えば快快の篠田千明や岡崎藝術座の神里雄大という新しいアーティストにも取り組むようにしています。新国立劇場と岡田さんが仕事をするにあたって、やむなく法人化したのも2006年。会社にしないとやっていけなかったと思うし、法人化によって会計面でかなりクリアにフォーマットが出来てきたので、やって良かったと思います。ただ、どこかの座付制作をやることは、私の構想にはなかったんですね。自分が支援したい、一緒に創作したいアーティスト数人とやっていくことによって、事務所を運営し、ノウハウを貯めて、ネットワークを作って…。やがて(矢内原)美邦さんが持ってる美術方面のネットワークを岡田さんに転用したり、岡田さんが文学をやったら今度は他のアーティストに…と、どんどんつなげて渦を大きくしていくことが、すごく面白かった。それが2006年から2010年ぐらいまで。

伊藤:
やっぱり自分の企画をやりたいという気持ちがあるから?

中村:
そうですね、今でもありますね。だからアーティストのマネージメントは他のスタッフに任せたり(笑)。

伊藤:
それはいい(笑)。

中村:
海外ツアーも初めは凄く刺激的なんです。でも一周すると私がルーティーン(決まり切った繰り返しの仕事)で行くよりも、他の人が行った方がいいという話になる。会社というスキームがあることによって人材は育成できます。それによって今は岡田さんのことを完全に任せられるスタッフも育ってきたので、また新しいことに挑戦していきたい。

伊藤:
でもそれをやるとアーティスト側から「困る」とか言われない? 「お前じゃなきゃ嫌だ」とか。

中村:
…ありますね(笑)。でも私にも欲求があるので、欲求を形にするためには必要なプロセスなんだと思う。同時にアーティスト側が「私(中村)と仕事をしない」という権利も持ってると思うので、そこの緊張感は常にあります。「今の体制に問題があるなら一緒に改善していって、それでも無理だったら離れる」ということはあり得ると、いつも思ってます。

伊藤:
ありがとうございました。それでは最後に細川さんにお話をうかがいたいと思います。ここまで話をされた3人は皆、偶然にも2006年が大きな転換期になってます。2006年というと細川さんは何をされてましたか?

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■細川展裕(株式会社ヴィレッヂ会長)
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細川:
劇団☆新感線の『メタルマクベス』かな。

伊藤:
それくらいですね。細川さんが最初に関係を築いていたアーティストである鴻上尚史さんとはどういう時期なのですか?

細川:
皆さんはちゃんと演劇を始めてからアーティストに出会ってるけど、私と鴻上との出会いは幼稚園なんですよ。大学は別だったんだけど、幼稚園、小学校、中学校が一緒で。鴻上から「早稲田の学生劇団からやり始めたけど、(当時の流れで言うと)つかこうへいがやった劇場でやれるってことはプロになるってこと。ついては制作が必要で、社会経験があるやつがいい。だからお前に頼みたい」と言われたのが1984年。既に社会人だったんですが会社を辞めて、初めて東京に出てきた。東京に住んだことなかったんだよ。

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伊藤:
確かレコード会社にいらしたんですよね?

細川:
うん、その頃のレコード会社にね。昨日も桜美林大学で似たような話をしたんだ。今だと本当に考えられないと思うけど、当時は就職なんかどうにでもなるっていう、ふざけた時代だったのね。俺なんか大学出てぷらぷらしてて、失業保険もらっちゃあ適当に就職して…っていう状態。1984年に鴻上に制作を頼まれて「制作ってモテるの?」って聞いたら「モテるよ」って言うから「ほんとかよ!じゃあ30歳までやろうかな!」って。(場内で大いに笑いが起こる)

伊藤:
そんな動機ですか(笑)。

細川:
うん。ダメだったら田舎に帰ろうと思ってた。あの頃は本当にそんなことができた。一大決心なんて全然してない。何事もないように引っ越してきた。でも東京に知り合いは鴻上しかいないから、誰一人知らないし、芝居も観たことない。一番象徴的な例としては、1986年に本多劇場に「渡辺えり子(現在の渡辺えり)と申しますけど、今日のお芝居を観たいんですが」という電話がかかってきた時。すぐに「ごめんなさい、今日はいっぱいなんです」って言って断った。…後から凄く怒られて。(会場で大いに笑いが起こる) 鴻上と2人で菓子折り持って紀伊國屋ホールに謝りに行った。招待状送っておいて満席はないよね。そのぐらい何も知らなかった。

第三舞台はいい調子で客も増えて、僕が関わった時は紀伊國屋ホールで5日間9ステージ、動員は4000~4500人ぐらいかな。あ、もっとだ。皆さん、今は想像もできないでしょうけど、紀伊國屋ホールには通路があるじゃないですか、あそこに2列で客を入れていくんです。上下(かみしも)で136人、入れられる。(会場で大いに笑いが起こる) 418席の劇場がなぜか550人。それを当たり前のように毎日やってた。イスは全部売れて無いわけだから、「当日券あります」というのは「通路に座れます」という意味だった。消防法が厳しくなる90年代初頭ぐらいまでやってたかな。その通路の案内をやるのが私たち制作の仕事で、今から思えば「消防法に違反している」と通報されたら確実に現行犯で劇場からそのまましょっぴかれるね。136人が通路に座ってぎゅうぎゅうですからね。でも誰も文句言わない。「はい座布団持って入って行ってください、はいどうぞどうぞ、詰めて詰めて」って平気でやってた。

そんな人気絶頂の時代があって、1998年まで第三舞台を社長という立場でやりました。東京で3万人、大阪で1万人というのが当時の第三舞台の動員パターン。27歳にして「1億円あるんだけど、どうやって使いますか?」っていう立場だったわけ。私こう見えてですね、57歳バツなし独身なんです。何が言いたいかというと、結婚に対して消極的だったという個人的なこともありますけど、「いつでも夜逃げできるように」してきた。「銀行に行ってお金を借りる時に誰かに相談しなきゃいけない」なんてことは、本当に御免被りたかった。だからやっぱり、20代で自分でもよくわからない額の大金をまわして、皆にちゃんとギャラを払ってきた者としては、芸術的な目論見や企みが薄い分、「演劇のプロデューサーは演劇の経済効果を通して雇用を生み出し、社会に貢献をする」というのが俺の立場。稽古が始まったら「はい、もうお任せ!」っていうタイプだから。自分に唯一できる責任の取り方はそれぐらいかな~と思って32年間、演劇でなんとかご飯を食べられたので、神様に感謝というところですね。

伊藤:
第三舞台から劇団☆新感線に移ったのは?

細川:
鴻上君とは1998年まででした。彼が1年間ロンドンに留学した後に。伊藤君も(長塚圭史と仕事を続けてきて)同じ目に遭ったと思うけど。

伊藤:
あはは。

細川:
だいたいロンドンから帰って来たら面倒くさいこと言い出す。(会場で大いに笑いが起こる) 芸術的なことを言い出しちゃう。ちょっと方向性が合わないかなと。まだ親も生きてたから、私は芝居なんかやめて田舎に帰ろうかなと思ってた。そこに劇団☆新感線から「東京に出てちゃんとやりたい」という話が来た。新感線ってね、大変な劇団みたいに若い子たちに思われてるんだけど、1980年に旗揚げして1999年までノーギャラだからね? 19年間だよ。20歳で入団した奴が39歳までギャラなしだからね。

伊藤:
その話は有名ですね。

細川:
なぜ辞めなかったのかというと、バカだからなんだよね。(会場で大いに笑いが起こる) バカなんだよ、気がついてないんだもの。19年間ノーギャラで辞めないなんて、どうかしてるよ。そいつらが「東京でもうちょっとどうにかしたい」と言ってきた。その頃の新感線の東京公演はいい時で7000~8000人。大阪公演は5,000人ぐらいかな。1997年から1998年当時は「まあ好きな人は好きだしね」という感じの劇団だったの。「大阪拠点だと東京でちゃんと営業できない」とか、古田新太がちょっと売れ出したとか、色々なことがあって、事務所も拠点も東京に全部移すことになった。

1980年当初、南河内万歳一座と劇団☆新感線がまだ学生だった頃、大阪ガスが運営する扇町ミュージアムスクエアが本当にタダで稽古場を貸してくれてたんですよ。神のような采配だね。それで皆、ずーっと好き放題にやってた。逆に言うとぬるま湯状態。「稽古場はあるし、いつでも芝居打てるし」と。やりたい時は年6本とかね。お客さんの数がどんどん減ってるのに平気でやってた。(会場で大いに笑いが起こる) 500人、500人、300人、200人みたいに。そりゃそうなのよ、だって毎月芝居やってんだから客は減るし、クオリティーは落ちるし。本当にやりたい放題にやってた劇団なんだよね。

でも1995年に、僕が第三舞台をやりつつ、外部から少し関わった。デーモン小暮閣下をゲスト出演させて、きちんと外部との関係を作りながら。劇団☆新感線のようにわかりやすいタイプのエンターテインメントは、スターシステムに向いてる。それに呼んできたスターを立てられる体制だった。19年間ノーギャラでやってきたような劇団員だから機嫌よく迎えてくれるの。普通なら有名ゲストが来たら「ちょっと待てよ、俺の出番はどうしてくれるんだよ」と言い出す役者がいるんだけれど、「いや、そんなスターがやってくれるんなら、ぜひお願いします。私はなるべくセリフ少ない方が助かるんで」とかね(笑)。(会場で大いに笑いが起こる) いい意味でそういう人たちだったから、色んなことがうまくいったのね。

今でも覚えてるけど、東京に来る前の1996年、劇団☆新感線が今は亡きシアターアプルでやってる時。作・演出のいのうえひでのりは役者もやってたの。本番が始まって自分の出番が終わるとすぐに後方客席に回って、衣装つけたままで芝居を観て、ずっとゲラゲラ笑ってるわけ…よっぽど楽しいんだろうね(笑)。(会場で笑いが起こる) そしてまた舞台に戻って自分の出番をやったりしてるのを俺はずっと見てて、「いのうえさんね、自分が出てるところは本当に演出が甘いことになってますよ」って言ったの。(会場で大いに笑いが起こる)

伊藤:
深い!(笑)

細川:
「他人がやってるところは楽しそうに観て、後からダメ出しして。でも自分が出てるところはセリフを噛んでも平気。多少セリフを飛ばそうが失敗しようが、誰も指摘しないし。もう役者、辞めたらどうですか? 楽しいのはわかるけど」って。そしたら1997年にスッパリ辞めたのね。それから本当に演出に専念した。だいぶ経ってから、2000年か2001年の大きなイベント事で「いのうえさん、久々にちょっと役者をやったらどうですか?」って言ったら、すごい真顔で「いや辞めろって言われたから」って。いい意味で決心してたんだね。中途半端な決心じゃなくて本当に100%辞めた。それが今の結果につながったんだろうなと思いますけど。

アーティストとの関係という意味で言うと、いのうえひでのりに役者を辞めさせたのは私の功績かな。それから鴻上尚史に「劇団を作れ」と言ったのも私の功績かと思う。2006年、2007年ぐらいかな。本当にここだけの話だけれど、飲み屋で「だいたいお前は先生体質なんだから劇団作れよ」っていう話をして、人生で初めて鴻上からメールもらったね。帰りのタクシーの中で携帯が鳴って「なんだろう」と思ったら「提案に感謝する」って。

伊藤:
…ちょっといい話ですね。

細川:
ちょっといい話でしょ?

伊藤:
作品の中身についての話などはするのですか?

細川:
僕から鴻上君に作品の中身について云々言うことはない。劇団☆新感線に関しては、ほっとくと“ネタもの”ばっかりやりたがる人たちだから、「『五右衛門VS轟天』みたいなバカみたいなことは3年に1回でいい」「ちゃんとゲストを呼んで大きな交流をきちんとして」「いのうえ歌舞伎や五右衛門ロックをやって、好きなことは3年に1回だけにして、その繰り返しでやりなさい」と。あとは「絶対に上演時間は3時間を超えないでください」。これだけしか俺は言ってないの。ところが一度もそれが実行された試しがない。(会場で大いに笑いが起こる) 上演時間が長い! こうなると劇作家の中島かずきが「こんなにゲストがいたら人数分の見せ場を作んなきゃいけない」。俺は「ゲストはこのぐらい呼ばないと動員できない」。そしたらいのうえが「だって台本に書いてあるんだからしょうがない。やったらこういう尺になっちゃったんだよ」となる。本当に子供の喧嘩みたい。結果的には3時間10分か15分ぐらいになってるけど。

伊藤:
少しだけ未来のビジョンについてうかがってもいいですか?

細川:
ちょうど僕が本谷有希子の面倒を見ようかなと思った時期に、ここより若い世代に俺が関わることはもうないなぁ…と思って。なぜならば、正直なところ、皆が成長する頃には死んでるかもしれないからね。あと10年と考えると微妙かなぁ…となり、意識的に若いところはあんまり観なくなった。だいぶ噂は聞いたんだけどチェルフィッチュも。その世代は俺は関わっても失礼じゃないか、本谷ぐらいがギリギリかなと。

なおかつ本谷ぐらいまでが「お芝居をやってお客さんを入れて、それが増えたらご飯食べていけるんじゃないか」という60~80年代に当たり前だったビジネスモデルの最後の世代かな、と。(長塚圭史が作・演出する)阿佐ヶ谷スパイダースも。そこから後の人たちが海外だったり助成金だったり、違う世代に変わってきた。

伊藤:
動員や経済重視の劇団がなくなってきたのはなぜだと思われますか?

細川:
なんでだろうね…。でも、存在しないわけじゃないんだよね。たとえば福原充則くんを観てると近いものは感じるし、やりたいものの質や、タイプの違いだと思うよ。海外に向いてる人も、面白いことをやって客を増やすのに向いてる人もいる。パルコ劇場やシアターコクーンあたりのプロデュース公演の演出もできるような、ポツドールの三浦大輔くんのようなタイプもいるわけだし、ゼロじゃないですね。ただ、いのうえ(ひでのり)ははっきりしてたんだよね。チャンバラやスペクタクルがやりたくて、バカみたいにデカいLEDを舞台に置きたくて。それにはお金がかかるというだけの話。それやるために5万人、10万人の観客を呼べばいい。それぐらい予算があればいろんな人が呼べる。「払うものはちゃんと払う」ってことを積み重ねたら、今の形になったというだけのこと。もしいのうえさんが「素舞台でいいんだよ、ジャージでいいんだよ、最後だけタキシードをレンタルしといて」っていう、つかこうへいのような芝居を望んでたら…

伊藤:
今のようにはなっていない。

細川:
そう、なってない。あれなら入場料5000円で成立するからね。必要なお金をどうやって集めるか。発想としては「予算内に収める」のとは逆。

伊藤:
アーティストの欲望を叶えるためにお金を集める?

細川:
そう。それありきだから。「舞台に雨を降らしたい」とか言い出すから、こういうことになっちゃう(笑)。

伊藤:
僕が衝撃を受けた公演として記憶に残っているのが新橋演舞場で観た『阿修羅城の瞳』(いのうえ歌舞伎)です。2000年6月に阿佐ヶ谷スパイダースに正式に復帰して1本公演をやった直後、8月の公演でした。それまでどんなプロの芝居を観ても、すごいとは思うけどそこに到達するイメージはなんとなくわかったんです。でも『阿修羅城の瞳』は全くわからなくて。新感線なのに新橋演舞場で歌舞伎役者の市川染五郎さんが出てて、同時に小劇場劇団ナイロン100℃の新谷真弓さんが出てて…「どうなってんだコレ?」と。

細川:
劇団☆新感線がずーっとやってきた小劇場の芝居に染ちゃん(市川染五郎)が出てくれて、かつ、伝統ある新橋演舞場でやってるってことだよね。あの時はまだ公演期間が2週間だったの。新橋演舞場を1か月は開けてくれなかった。「こんな公演、本当に客が入るのか?」という松竹の心配もあって。「夏だし、実験的に2週間だけやりましょう」となって、やってみたら一応お客さんは入った。あそこから続いていくんだよね。

伊藤:
あの形はプロデューサーとして見えてたんですか? 細川さんが仕掛けたんでしょうか。

細川:
あの形を見えてたっていうか、俺はむしろ「いのうえさん、よくやったな~!」と思ったよ。あれだけの大舞台で。だってここだけの話、ひとこと“劇場”って言ったってね、“この道何十年”という人たちがいるわけでしょ。下足番から始まって、制作、照明にも“棟梁”と呼ばれる人たちがいる。演出のいのうえもだけど舞台監督も大変だったんですよ。自分より年上のすごいキャリアの方々を相手に、「そこの介錯おかしいんじゃないの?」とか言いながらやんなきゃいけない。終わった時、芳谷研というまだ当時30代の舞台監督が「俺は30代で演舞場の舞台監督をやりきったんだ!」って言うのを100回ぐらい聞かされた。(会場で笑いが起こる) そのぐらい本人も大変だったんだろうし、実際本当に凄かった。よくやれたなと思う。それがつながって行った。確かにいのうえ君にとってもひとつの出発点ではあったね。

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■経営感覚をどこで学んだか
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伊藤:
ありがとうございました。皆さんのお話をうかがっていてやはりお金の話が気になるのですが、経営感覚という点についてもう少し掘り下げてうかがいたいと思います。加藤さんは若いころからドーンと仕事を任されていた印象があります。ご自身の経験の中でスキルアップをしていったんですか?

加藤:
上司が2人続けて辞めちゃったので、2004年に急にSTスポットの館長になったんです。入ってすぐの年でした。すごく小さなNPOなので、リタイアされたお年寄りの男性がボランティアで経理を見てくださっていたんですが、「孫と過ごす時間が欲しいからやめようかな」とおっしゃった。それで館長から「あなたに経理をやってもらいたいから簿記の学校に通って」と言われて。横浜のスカイビルにある会計学校の2週間集中講義に通いました(笑)。簿記の試験を受けて、そこからずっと会計をやってたんですよ。だから一番ペーペーのスタッフが、館長に毎月お給料を払ってた(笑)。(会場で笑いが起こる)

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伊藤:
もともと知識はあったの?

加藤:
いえ、全然ないです。

伊藤:
簿記は2級?3級?

加藤:
3級ですかね。決算は税理士さんにお任せなんですけど、日常のこまごまとした経理は全部やって、給料のお支払いもして…変な感覚でしたね。

伊藤:
細川さんは経営感覚についてはどこで?

細川:
そんなもの今でもないよ、別に。(会場で笑いが起こる) どんぶりだもん。

伊藤:
え~、それはものすごいデカイどんぶりですよね…。

細川:
うん、大きなどんぶりだね(笑)。出て行くお金は決まってるでしょう。それを削るぐらいだったら入ってくるお金を増やそうよ、と。私の基本思想はそれだよ。大きくはそこだけ。

伊藤:
すごい…。

細川:
でも一度は限界が来るので「…すみませんでした」と言うことにはなるんだけど。(会場で笑いが起こる) それはしょうがないでしょ~、だってユニクロだってトヨタだってそうなるわけで。もちろん要らないものにお金を出す必要はないんだけど、出ていくお金を削ることに腐心するぐらいなら、とにかく入ってくるお金を増やす方に腐心する方が健全じゃないか、というのが基本姿勢です。そのへんもアーティストによって違うんだろうけど。サードステージ時代は飲み代は全部(俺の)自腹だったから。ほんとにね、プロミス、アコム、武富士…日立信販の無人くんで契約した時に「人間終わったな~」と思ったけどね。

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伊藤:
日立信販って…もう何の会社かわかんないですよ。

細川:
日立信販は“日立”ってついてるだけで、あの大手の“日立”とは全然関係なくて。そういう借金話はいっぱいありますよ。

中村:
細川さんの会社の規模はどのくらいですか?

細川:
うちは10億か、良くて20億くらいかな。

伊藤:
今、社員は何人いるんでしたっけ?

細川:
21人。

中村:
すごいですね…どういう風に推移していったんですか?

細川:
1998年、1999年は大阪から制作の社員が2人と、アルバイトが1人で合計3人。千駄ヶ谷の家賃10万円ぐらいのマンションに荷物を運び込んで、そこに居た。私も居たから劇団☆新感線の東京事務所はワンルームに4人。2000年なんてそんなレベルだよ。

中村:へー、結構身近な話ですね。

細川:
そうだよ。そこからちょっとずつ増えて行って、さっき言った2006年の『メタルマクベス』で先が見えたかな。当時「マクベス級」って言ってたんだけど、「マクベス級」の公演を年に1本はやっていかなきゃいけない。

伊藤:
青山劇場で1か月間の公演ですね。

細川:
動員で言うと6万人が見えるぐらいの予定がないと、ちょっと維持費が厳しいだろうというのが、あの時代かな。一番覚えてるのが2002年に赤坂ACTシアターで『天保十二年のシェイクスピア』をやった時。新橋演舞場では松竹と組んでいたし、その他にも東宝とやったりパルコとやったり。

伊藤:
大手資本と組んでるんですね。

細川:
自社単独で3憶円以上のリスクを背負うのは実はあれが初めてだった。初日に主役の上川隆也が倒れたら、誰が3億円払うんだっていう話。「もう絶対にコケられない」とわかった。「1本たりともコケられない」という決心が反映されたのが2005年の堤真一主演『吉原御免状』から。2002年に準備したものが2005年にできるからね。だから2003年、2004年は大変だった。それまでの新感線っぽい感覚だったから。「いのうえさんがやりたいって言ってるからやればいいじゃん」っていう。2004年には『髑髏城の七人』を染ちゃん(市川染五郎)と古田(新太)の2本立てでやったりして体裁を整えてたけど、まだきびしかったね。

伊藤、他:ええ~…。

細川:
ただ「1本たりともコケられない」と思って実現した『吉原御免状』から今日までは、約11年間、18作品、即日完売。誰も言ってくれないので自分で言っときますけど。(会場で笑いが起こる)

伊藤:
走り続けて来られたんですね。

細川:
なので、もう倒れます、間もなく。早く引退したいです。無理なものは無理、と。

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■100%確実ではない助成金/演劇はマイナーゆえ仕分けられなかった
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伊藤:
会場からの質問です。100%確実ではない助成金という枠組みから外されたとしても、アーティストのクリエイティビティーを実現するために、チケット代をきちんと払って下さるお客様を増やすことはとても大切だと思いました。それぞれの劇団において、アーティストに対して実施してきて良かった方法や、失敗した事例があれば教えてください。

細川:
この質問のアーティストとは、作家、演出家、役者も含めて?

伊藤:
ここでは作家、演出家に絞った方がいいかと。

細川:
うん、役者なんかアンポンタンだと思ったらいい。

中村:
あはは!

細川:
皆さんが集団で何かを決める時、役者を巻き込む?巻き込んで意見を聴く?

中村:
うちは、それはないですね。作家の質でもあると思うんですけど、チェルフィッチュの岡田さんはセルフィッシュ(自分勝手)をもじって団体名をチェルフィッチュにしたくらいなので(笑)。

細川:
なるほど、“自分大好き”だ!いい人だね。

中村:
なので、いわゆる劇団じゃないから、そういう思想はないです。俳優をどうやって売っていくかはビジネスモデルの1つじゃないですか。私はそこから降りて、始めているので。

細川:
私もそう。役者に食わしてもらうぐらいなら、舌噛んで死んでやるってね。私の尊敬する先輩の名言です。

伊藤:
そこまで思わないけど…(笑)。(会場で笑いが起こる)

中村:
自分が役者のマネジメントができればいいなぁとも思いますし、今の細川さんの話を聴いていて、潔いと思いました。自分が売ったもので、食わせることができるっていうのは非常に気持ちいいやり方。助成金を取るとかより…。

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細川:
でも新感線も助成金もらったんだよ、アーツプラン21の初期の頃の3年間助成。その時に正~直に申請を出したら、めっちゃ金額が少なくて大失敗しちゃった。2年目からは「前のやつは忘れてください」と言って(笑)、なんとか少し増やしてもらったんだけど。3年間もらった後、しばらくは文化庁に行くとお手本だったの。「劇団☆新感線は大阪から東京に出てきて3年間助成金を受け、そこから後は自分たちでやってらっしゃいます。皆さんもそれを目指してください」という風に、よく文化庁の説明の時の引き合いに出された(笑)。そういう時代が少しあった。2002年、2003年の頃かな。

中村:
たぶん、私たちはそのモデルに全くそぐわないんですよね…。

細川:
質問にもあったように、それこそ政権が変わったりしたらどうなるかだよね。安保法制も通っちゃうし…安保法制とマイナンバーの組み合わせって、どう考えても徴兵制しかないでしょう。そんな流れの中で「芝居なんかに税金を使ってる場合じゃない」って話にならないとも限らない。感謝しなきゃいけないのは、お芝居ってマイナーにも程があるって程、マイナーでしょ。そのおかげで、民主党の蓮舫の仕分けにひっかからなかった。芝居なんて誰も知らないだもん。話題にもならない。(会場で笑いが起こる) 「スーパーコンピューターは世界で1番じゃなきゃだめですか?!」とか「1000年に1度の堤防は必要ですか?!」って言って取り払っちゃって、でも後で必要だったとわかるんだけど(笑)。(会場で笑いが起こる) スーパーコンピューターもあのせいで日本は勝てなくなったし、堤防も必要だった。ああいうトンチンカンなことを言う政治家が芝居を仕分けなかったのは、ただ知らなかったからなのね。「こりゃ助かった、ラッキ~」ってこと。

だって蓮舫が万が一、芝居通で「先日拝見したお芝居ですが、こんな助成を受けていました。こんなの政府が出す必要あるんですか?」なんて言い出したら、ややこしいことになる。32年間、演劇の受付に立ってるけど、国会議員に会ったことがない。どれだけ皆、演劇に興味、関心がないか。たぶん議員さんたちは東宝のミュージカルとか劇団四季、歌舞伎ぐらいしか行ってないんだろうね。

宮永:
青年団にはよく来ますよ。

細川:
あー、そっちはね、逆にね。

伊藤:
逆にねって(笑)。 (会場で笑いが起こる)

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■制作者に必要な資質とその理由
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伊藤:
続いて会場から質問です。ご自身が考える、制作者に必要な資質とその理由を1つだけ教えて下さい。

宮永:
僕は「飽きること」を自分の中の大事なことにしています。プロデューサーとして、今、作ってるものに対して飽きていないと、どんどんお客さんに追いつかれちゃうっていう感覚があるんですよね。常にお客さんの2歩、3歩先を見て、この先お客さんが何を求めてくるかを考えている。今、アウトプットしているものは、自分が既に飽きたもの。言い方は悪いですけど(笑)。

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加藤:
相反する2つなんですが、制作者には持久力と瞬発力が必要だと思っています。思いついた時にパって動けることと、「いつか何かになるかも」と思ってずっと、じわじわと自分の中で追い続けること。その両方が必要かなと。ものすごいエネルギーが要るし、自分がそういう風にしか仕事をできないからかもしれませんが。長く続けられるものではないなとも思います(笑)。

細川:
俺は、極端なネガティブ・シンキングかな。いつも「どうせダメだよ」と思う。言霊があるから言うのが怖いんだけど、お芝居なんてね…本当にここだけの話、おかしな人が1人居たら終わっちゃうんだから…。観客が客席から「ギャー!」って大声出して舞台に上がって来たら、もう終わりだからね?その危うさを常に持ってるわけですよ。実際ある公演で、本当にファンが上がって来たからね、普通に、舞台上に(笑)。なんとか連れ出しましたけどね。

伊藤:
僕が制作に入っていた公演です。出演者が気づいて、その人を囲んで舞台袖に誘導した…。

細川:
舞台は本当に凄く危ういところで成立しているメディアだから、そういう意味ではネガティブに考えても考えても足りないぐらい。「インフルエンザ1発で何億円飛ぶと思ってんだよ」とか考えだしたら寝られないでしょ、それぐらいネガティブ。だけど終わったら「終わった終わった!頭入れ替えて次に行きましょ!」という、あっけらかんとしたポジティブさもなければいけない。だから「やる前は、何があるかわからないという態度で居る」というところかな。

皆、若いから、問題がある時に全員が解決しようとするでしょう。でもこのぐらいの歳になると「忍法・知らん顔」で、通り過ぎるのを待つ。そうするとだいたい半分ぐらいの問題は「なんとなく、もう、いいんじゃないかな~」というぐらいにはなってる。(会場で大いに笑いが起こる) でもどうにもこうにも残るものは何とかしないとしょうがない。とりあえずは「忍法・知らん顔」しておく。それができるかどうかじゃないかな。

伊藤:
僕が2002年に細川さんとやった『スサノオ』という公演は、自分が一番成長できた公演として前々回のON-PAMでも話してるんですけど。その時の細川さんはとにかくポジティブでしたけどね。トラブルになればなるほど、大笑いして制作室に入ってくるんですよ。そしてケラケラ笑ってるんですよ。

細川:
だから、それが「忍法・知らん顔」。

伊藤:
え!あれが、そうだったんですか?!(会場で大いに笑いが起こる)

細川:
そうだよ~、だって解決しないんだもん、絶対~。

伊藤:
僕がそこから導いた法則は、「物事には常にポジティブとネガティブの二面性がある。ネガティブな側面が大きければ大きいほど、考え方次第では、同じくらいの大きさのポジティブな側面もまたある。その絶対値は同じである」ということなんですよ。

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細川:
凄くいいこと言ったね。

伊藤:
ええ、だってこれは細川さんから学んだんです。でも、そんなことは全然考えておられなかったんですね…?

細川:
うん、全然。(場内で笑いが起こる) だって大手芸能プロがダメって言ったことはダメに決まってるんだからさ。交渉の余地がないことは受け入れるしかないんだもん。主役の事務所が「こうしなさい」って言ってきたら「いや、普通、演劇ではね」って話をしたってしょうがない。1%の可能性もない。それこそホント笑うしかないよね。演劇ってそういう極端な現場なのかもしれない。

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■世代の差、時代の差
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伊藤:
僕が上の世代のプロデューサーを見ていて思うのは、何もないところから作ってきた方々だということ。細川さんを始めシス・カンパニーの北村明子さんそうですし、高萩宏さん(元・夢の遊眠社の制作、現・東京芸術劇場副館長)もそう。僕らの世代は先輩方が形にしていったものから法則を作り、解釈をしてきた。決定的に違うのは、僕らは芸術文化振興基本法が生まれてから制作を始めているんですよ。芸術文化振興基本法はじわじわと色んな文脈で沁みているので、自分より下の宮永君たちの世代もまさにそう。国と闘ってあれを作った先輩方がいる一方で「あんなの興味ない」っていう先輩方もいる。細川さんは、僕たちとは全然違うことを考えて制作者として生きてきた代表格。もう伝説みたいなものです(笑)。

細川:
蜷川幸雄さんは高校卒業するまでテレビを見たことないのよ。そう言うと若い子は「え、そんなに貧乏だったんですか?」って言う。いや、テレビそのものがなかった時代だから。放送開始70年として考えると、蜷川さんは今80歳ぐらいだから、たぶん高校卒業して2、3年経ってからテレビを見てると思う。高校入学の段階でテレビを見たことがない人が作る創造物と、「生まれた時から『ひょっこりひょうたん島』を見て育ちました」という鴻上や野田秀樹さんの世代と、さらに「携帯は物心ついた時からいじってました」という世代。伊藤君のさっきの話と同じで、前提が違うから感覚が全然違うと思う。今の20代なんてスマホ前提でしょ。

伊藤:
スマホとインターネット前提ですよね。

細川:
俺たちの時代さえ言われたもん、「いいね、君らは生まれた時からテレビあったんだろ」って。

伊藤:
鴻上さんたちの世代は、大学で初めて出会った友達が、共通のテレビ番組を見ていた初めての世代なんですよね。

細川:
そう、1975年以降に大学に入学した世代ね。それまでは全部バラバラで、大学で出会った青森の人間と四国の人間に、何の共通体験もないのが当たり前だった。「俺もその番組を水曜日の夜7時に見てた」という会話が、人類史上初めて成立したのが1975年。初めて誰もが幼い頃の共通体験を語り合える世代だった。テレビの放送からさかのぼればね。

伊藤:
たぶん鴻上さんの創作には大きく影響があると?

細川:
確実に影響されてる。

伊藤:
映画でも共通体験はあったかもしれないですけど、難しいかな。

細川:
映画なんて四国はロードショーをやってないから、俺たちは「ゴッド・ファーザー」を見るまでに2年待った。

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■「いい作品を作りたい」という原点に還る
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伊藤:
制作者に必要なスキル、資質で、中村さんは何かありますか?

中村:
仕事取らなきゃ、お金をいくら集めきゃと、色々苦心して営業してきましたけど、最近私が心掛けているのは、「いい作品を作りたい」ってことです(笑)。仕事のバラエティーが増えてきたと言いましたが、求められることはカンパニーによって違います。たとえば海外のフェスティバルや劇場、都内のフェスティバル、地域のプロジェクトなどで、求められることが多様になってきた。その中で仕事をしていく時に、何を忘れちゃいけないのかと考えるんですよね。

地域プロジェクトだと集客が最優先ではなく、地元の人たちとの関係性にどうメリットを生み出すかという課題が出てきたり、海外で仕事をする時と国内で仕事をする時ではボキャブラリーの使い方や方法論が違ったりする。その都度その都度、とにかくいい作品を作ることに集中して考える。そういうことをやらなきゃと、最近すごく強く思ってる。

伊藤:
前よりも強く思ってる?

中村:
そうですね。前はもう少し、お金がちゃんと集まるから良かったとか、話題性がこれだけできたから良かったとか、ツアーにこれだけつながったから良かったとか、思ったりしてたんですけど、そうするとやっぱり、お金を集めることの方が作品よりも重要になっちゃったり、効率よくプロジェクトが回ることが自分にとって重要になっちゃったり。やればやるほど周りのことがうまく出来ることの方に頭がとらわれていって、つまんなくなっちゃうことがあったんですね。やっぱりアーティストと本気で話し合ってものを作るっていうことを、中心に考えていくべきだと、最近、思い直しているところです。

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■未来の展望
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伊藤:
未来の展望というか、今、何を考えているのかをお聞かせください。先ほど細川さんがご指摘されたように、危ういところのある安倍政権下ですが、一応、文化芸術振興基本法の「第4次文化芸術振興に関する基本的な方針」が閣議決定されました。第3次と第4次の大きな違いは東京オリンピック、震災復興、地域創生のことがかなり盛り込まれている点です。

当然、前提には公立劇場の台頭という、この20年間に起こった大きな変化もあります。一方で2.5次元ミュージカルというジャンルの誕生など、商業演劇のシーンも荒々しく変わっていく中で、皆さんがクリエイターと関係を取りながら今後、制作をしていくこと、いい作品を作ることを見据えて、どんな5年後、10年後を考えているのかをお話しいただきたいです。

宮永:
どうしたってその辺りのことを最近ずっと考えているから、自分たちの作品創作にも影響していることなんですけど・・・。劇場は誰に必要とされていて、アーティストは劇場で何ができるのかを、改めて考えてます。劇場という箱の中で生み出すものは、全国の劇場でもできるし、箱さえあれば海外にも持って行ける。そこで僕らは収入も得られるし経済効果も生まれるんですけど、自分たちが劇場に来る「お客さんの顔を見失った」という感覚は、たぶん他のアーティストにも起こり得ることだと思うし、観客と自分たちとの「観る/観られる」という関係性自体に、違和感を持ちながらも演劇表現をしたい人はたぶんいると思う。ここ最近、僕らがやっている「港の劇場」や「Theater ZOU-NO-HANA」といった作品では、いわゆる劇場型の「観る/観られる」という関係性とはまたちょっと違う繋がりを求めてる。こういった演劇表現が合ってるアーティストは他にもいると思うんですね。

ただ、最終的に劇場が場所として残っていくのであれば、使わなきゃしょうがないなという気持ちはある。じゃあ、どう使っていこうか。僕らが観客の顔を見失ってしまった劇場というものを使い続けるなら、どうやって顔の見えるお客さんと、いや、お客さんじゃなくても、どういう人たちとそこで関係を生み出せるのか。今の劇場、公共ホールの仕組みだけだと、これから先、難しいのかなと。自分たちが今、劇場から離れているだけに、どうやったら劇場というものの新たな可能性を見出せるのかを考えているんですよね。そのへんの話は公共ホールの職員の方ともよく話しますね…。こないだKAAT神奈川芸術劇場の館長の眞野純さんと偶然会った時に「うちも使ってよ!」って言ってくれたんですけど(笑)、「ままごとは最近、劇場から離れてて…」って話をしたら、凄く理解はしてくれたんですよね。だからそのことについて、僕らアーティスト側からアプローチしていくことと、劇場と話を持つ場は欲しいなと思ってます。

伊藤:
ちなみにON-PAMの第一回目テーマ委員会で高萩さんは「まだまだ公立劇場の可能性を引き出せてない」とおっしゃってました。長野県のまつもと市民芸術館で串田和美さんがやってらっしゃることは、かなり劇場の域から外れてることなんじゃないかなと思います。加藤さん、いかがですか?

加藤:
来年でちょうど急な坂スタジオは10周年です。10年前に皆で「気軽に使える稽古場がないのがすごく問題だ」と思って始めたんですが、改善してないんじゃないかという実感があります。だからもっと場所を増やしていきたいですね。劇場は建てられてるし、立派な設備は整ってるけど、発表する人たちがじっくりものを作る場所がないと、結局そこには絶対に、ソフトとしての作品が投下されていかないから。それを作るための場所や環境が必要です。やっぱり1つの場所だけでは限界があるので、横浜に限らず急な坂スタジオのような場所をもう少し増やしていきたい。今は色んなところに「眠ってる施設はないですか?」と聞いて歩いています(笑)。ちょっと地方に行くと、ある会社が持ってた保養所がそのまま残ってたりする。「あれって使えるんですかね?」と聞いてみて、「行政が持ってて、どう使っていいかわからない建物だ」という話になったとする。そしたら「別のものとして生まれ変わらせてみませんか?」という提案ができる。そんな情報がもっといろいろ入ってくるといいかなと思ってます。

中村:
関東近郊のランドスケープというか、環境はあんまり変わってないけど、地方は変わってますよね。

加藤:
兵庫県の城崎アートセンターとかね。新潟県の越後妻有にも劇場ができたし、瀬戸内国際芸術祭もあります。拠点が1つ出来ると、もっと色々循環するんじゃないかなぁ。

伊藤:
いい可能性が巡ってそうな気がしますね。

中村:
私は先日、アジア・アーツ・シアターという韓国の光州にできた新しい劇場のオープニング・フェスティバルに行ったんです。「アジアの同時代とは何か」をテーマにしたフェスティバルで、いま客席にいるSPACの横山義志さんもいらしてて、私たちはフル参加でした。これまでヨーロッパのフェスティバルに沢山参加してきて、自分の頭の中にある舞台芸術のマッピングが、ヨーロッパの舞台芸術史やオーディエンス、システムに、すごく支配されてたことに気づいたんです。アジア・アーツ・シアターで紹介されていたほとんどの演目は、アフリカや南米、ヨーロッパはもちろん入ってるんですけど、東アジアから中央アジアを中心にした作品で、そこを主軸にしたパラダイムで議論が展開されていました。

その時に、自国でその作品を上演できない人たちが沢山いたんです。「それを言ったらタブーだから」という理由ですね。つまりヨーロッパで観ている時よりも激しいイデオロギーの対立があったり、政治思想にすごくコミットしている状態があったり。あと、日本人として今まで見て考えていた自分の日本像ではない日本の姿を、歴史的にも今の時代的にも、色んな側面で感じさせてくれる作品がありました。つまり、アジアのフィールドに国際的な場を必要としているアーティストが沢山いることに気づいたんです。また、そういう場が支えていくべき言論空間や表現空間の必要性をすごく感じたので、そこに取り組んでいきたいなと思います。

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■地方に無駄なハコモノを増やしたくない
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細川:
今後の展望…私は「老い」に向けて、だね。あと10年で67歳ですから、もう死んじゃうからね。それまでにどういう「終い(しまい)」をつけとくか。アーティストも同じように、年を取って行くわけだから。

中村:
今、会長という立場でいらっしゃるから、後進に会社を譲るとかですか?

細川:
社長をもう別に立ててる。でも日々やってることは何も変わってないの。2年先、3年先のキャスティングとか、小屋取りとか。昔からそうなんだけど「大枠を決めて、これだけのしつらえができたから、具体的なことはそれぞれがやってくださいよ」という流れ作業で十数年やってきた。そこは今でもやらざるを得ない。そんな中であと10年か15年、自分の健康面を考えるとめちゃくちゃラッキーで15年かな、と。72、3歳になってきますからね。

普通に考えたら10年ぐらいのタームだよね。その頃には古田(新太)も60歳は超えてるわけだし。「私はできませんからね」「古田君の人生だから自分で考えてね」って言うことももちろんあるだろうし。50代後半になってくると、そういう風に具体的に「老い」に向き合い始めるんですよ。皆さんはあと少なくとも20年から30年はある。たぶんそこから見えてる世界と、俺に見えてる世界はどうしても違わざるを得ないと思うんだけど。

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伊藤:
…そうですね。

細川:
あとは地方創生とかね。今、四国の松山と東京を行ったり来たりしてるから田舎の事情がつぶさに入ってくるんだけど。いやもう…微妙よ?「レッツゴー無駄遣い」な人たちがいっぱいいるからね。「どうやって必要のないハコモノを作ってやろうか!」みたいな。

中村:
今だに、ですか?

細川:
うん、今だに。だって愛媛県新居浜市は私の生まれ故郷で、鴻上が公演をやったキャパ250人の劇場なんか60億円オーバーだよ?ありえないでしょ? (登壇者全員が驚きとともに引く) そういうバカみたいなことが起こってるの、地方では。人口12万人の新居浜の何もない駅前に、美術展示スペースと、座・高円寺(250席)ぐらいの地下の劇場を備えた立派なホールを作って、総工費が60億円超え。それだけあったらBunkamuraができるよ。本当にそんなものがこれから地方に増えないようにしないとね。今でもあるんじゃないかな、びっくりするようなハコモノを作ってる自治体ね。それはぜひ止めて欲しいですね。

伊藤:
建ててしまったら、活用するしかないですもんね…。

細川:
60億円あったら、たぶん東京の演劇人は2年は食っていけるよね、全員。(会場で笑いが起こる) だって1カンパニーにつき300万円ずつ分けたって、たいがいの数を養えるよ。

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■まとめ・会場からの提案
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伊藤:
「鳥の劇場」(鳥取県)の齋藤さん、ここまで聴いてきて何か感想などありますか?

齋藤啓(カンパニー制作):
さっき中村さんが「自分とアーティストはフィフティ・フィフティの関係にある」とおっしゃってましたけど、制作者とアーティストという設問のたてかた自体、そういう関係性を想定すること自体が、おそらく演劇やダンスの業界では割と新しいことなんじゃないでしょうか。そこには両面があって、1つは制作者という職能が認知され自立してきたこと。もう1つは、舞台芸術界のアーティストが集団性の中から切り離されてきたこと。

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たとえばもの凄いカリスマの演出家がトップにいて、全てがその演出家の意向で決まっていても、そうでなかったとしても、かつては集団としてのあり方がものすごく強く残っていた。きっと第三舞台もそうだったのではないでしょうか。加藤さんも言われた通り、支援する対象となるアーティストが全て個人名になっていますよね。そういうことがずいぶん変わってきている。制作者とアーティストという設問に、その背景が現れてるんじゃないかと思います。

私自身は劇団でしか制作をやったことがなく、アーティストと呼ばれる人間が仮にアンポンタンであったとしても(笑)、俳優も含めて、常に身近にいる。つまり外部に居るわけじゃないんですね。いつも一緒に居て、いつも一緒にやってる人をアーティストと呼んでもいいし、呼ばなくてもいい。もちろん才能は認めながらですが、そういう中で制作をしています。そう考えると、やっぱり舞台芸術においては集団創作の意味合いはものすごく強くて、どんなに距離を置いてやっていても、“皆でやる瞬間”はあるという気がします。

少なくともこの設問において念頭に置くべきなのは、具体的に言うとプロダクション・マネージャーとしての役割だと思うんですが、制作者がその集団でどういう役割を果たすのかということ。そしてもう1つ、これはON-PAMの今後のテーマとしても、制作者は1人のアーティストのためにやるのではなく、その向こうにあるお客さんや、舞台芸術の全体状況も含めて考えていかなきゃいけないんじゃないか、ということ。これから5年先、10年先のことも語られましたが、舞台芸術が集団創作であることが、音楽や美術のアーティストとのつき合い方とは少し異なる点だと思うので、今後のディスカッションではそれも踏まえてもらえればと思います。

細川:
まとめてくれたね。素晴らしい。

野村政之:
沖縄県文化振興会でプログラム・オフィサーをしております野村と申します。今、斎藤さんがおっしゃったことに尽きるかなと思いますけど、「アーティストと制作者」というテーマではどうしてもアーティストに偏ったり、「アーティストと制作者」が対になった問いになったりしがちですが、私たちが立てるべき問いは「演劇を通して何をするのか」「どういう種類のインパクトをアーティストと制作者で、あるいは演劇(又はダンス等)で、起こしていくか」ということだと思います。「アーティストと制作者との関係性云々」の話はもちろん出発点ですけど、そこで終わっちゃいけないなと思って聴いていました。

この先の時間に向かって、我々自身が主体となって「演劇を通して何をするのか」という問いを紡ぎ出していくことが、我々のこの集まりにとっては必要だと思います。ただ、自分の中にそれがあるかというと、すぐパっとは言えないのですが。

伊藤:
ありがとうございました。3回目も引き続き同じテーマでやってるのは、制作の個に帰った上で、制作の個として次にどう発展させるべきかを考えるためです。クリエイティブ・プロデューサーという言葉を何度か使ってるんですけど、プロデューサーつまり制作者がこの環境の変化の中で、次に向かってどういう役割や機能、あるいは新しい形を見い出せるのか。そこをこの後のグループ・ディスカッションで発展させられればと思います。

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■グループ・ディスカッション報告
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約15分ほどのグループ・ディスカッションを行う。
最後にグループ内でどういう話しを行ったのかを、報告者が発表し、参加者全員で共有。

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【加藤グループ】

報告者:
急な坂スタジオがある横浜市という街の特殊性は、文化度は高いが他の土地と比べて観客が少ないこと。そしてアマチュアの実演家が圧倒的にが多いこと。そういった街での急な坂スタジオの取り組みについて掘り下げていただいた。既にさまざまなことをやっているスタジオだが、市や土地に対してもうちょっと特殊なアプローチができないか。集客についても話した。この特殊な地域において、稽古場に関わる制作者として、今後どういった新しい取り組みを作っていけるのか、わくわくしながら従事していらっしゃるとのこと。面白い話を聴けた。

伊藤:
創作環境を整える機能は民間企業だと難しい。スタジオを貸すだけで売り上げを立てられるわけでは全くなくて、どんどん経費が増えて行くものだから。それを公立の組織である急な坂スタジオが支えている価値は高い。でもどうすれば市に評価されるのか。その評価の軸を見出すことが、加藤さんが普段かかわっているアーティストの先に見えている、市民や行政に対して価値を伝えることになる。それが次の課題かもしれないという話が非常に興味深いと思った。

【宮永グループ】

報告者1:
ままごとの小豆島滞在で何が起こり、宮永さんがそれに対して何をしたか等、参加者それぞれの実例を話し合った。劇団の活動と経営について、どういうやり方をしているのかも最初に話した。集団としてというより、一人ひとりの自立性を重んじて演劇と関わっていく方法や、劇団で何かをする際に「劇団としてどうするのか」を考えるのかどうか等。運営方法、団体の在り方、公演のやり方、どこで何を作るか等に、それぞれの色んな例があった。大量かつ多彩で、それぞれに異なるのだろう。この先の展開や見えてくる未来もまた、様々なタイプの選択肢があるのだろうと思った。

宮永:
「劇団」と「劇場」を同時に運営してらっしゃる方が多く、最終的に今後アーティストがどのように「劇場」という空間と関わっていくか、について話すことになった。

報告者2:
これから日本で公共劇場の仕組みを作っていくなかで、公共劇場で働く私が皆さんにお伺いしたかったのは、今の若いアーティストの方々がどういうことを求めているのか。それぞれのお話を伺って見えてきたような気もする。今の若い演出家の方々のニーズに応えられるような公共劇場の仕組みを作っていきたい。

伊藤:
このグループの横を通ると「食えない、食えない」って聞こえるから、何を話してるのかなって思ってた(笑)。

宮永:
そのことで頭がいっぱいなんですよ(笑)。

【中村グループ】

報告者1:
参加者が中村茜さんに質問をしていった。中村さんの発言は以下の通り:私はprecogの経営者でドリフターズ・インターナショナルという法人も持っている。ドリフターズ・インターナショナルはジャンルを超えた同時代のアーティストとクリエーションをする場で、そういう出会いを求める場でもある。基本的には自分がやりたいことを、やりたい時にやるためにスキームとして持っているもの。precogは5人のスタッフと3人のインターンがいる体制。自分が会社にいるとインターンの人たちが緊張してしまうので、わざと会社にいないようにするとか、現場のスタッフから自然と教わってもらう形にする。自分と一緒に仕事するメンバーは同世代が多いが、インターンの若者の年齢がかなり年下になってきている。今の若い人にはキツイことを言えないので、言い方に気を遣っている。

昔は社員を食べさせるために仕事を取って来なきゃという感じだったけれど、今はその段階を少し脱して安定してきた。ただ、precogのメンバーではないアーティスト、たとえば飴屋法水さんと仕事をするとなると、自社スタッフだけではできないことがある。その時は外部スタッフとプロジェクトごとに契約を結ぶことも始めている。1人の人間を雇うのは、その人の人生もあるから大変なこと。新しい人材をすぐに入社させることは難しいから、プロジェクトごとに雇う。そういう人脈も広げていきたい。

自分が年を取ると当然スタッフも年を取るから、社会的な補償も考えないといけない。だからといって容易に規模拡大はできないから、公演単価を上げることなどを考えている。たとえば海外ツアーの実績を重ねてきた岡田利規さんは海外の演劇界での地位が徐々に上がってきた。彼のプロダクション自体の値上げを考える段階に来ている。社員の給料のバランスも考えたい。たとえば技術スタッフには潤沢なギャラを払えているのに、俳優だけ少ないのは不公平。そういうバランスを考えることが重要になってきた。

「precogは小劇場の任意団体から会社になり経済的にうまくいっている代表格なので、人材を輩出する機関になって欲しい」という意見に対して。そこまでの約束が出来るわけではないけれど、インターンを取って社内の定例会、予算会議、企画会議などの全部を見せるようにしている。たとえばマームとジプシーの制作の林香菜さんはprecogでインターンを経験した。岡田さんの初めての海外ツアーで一緒に勉強した人は今、precog以外でも海外ツアーの仕事が来たりしている。自分と一緒に仕事をした人たちの中に、それなりに育った人もいる。インターンは学生の間にする方が育つ。長時間べったり居る方が仕事も沢山覚えられるし、卒業時にそれをスキルとして就職できたりもする。卒業して就職した後だと、べったり居ることが難しい。

企画で重視するのは「このアーティストとやりたい!」「これがやりたい!」という気持ち。たとえば犬島や城崎といった地域からの仕事が来た場合は、そのプラットフォームにはどのアーティストがいいかを考える。自分が何かをやりたいと思ったら、自分でお金集めをする。演劇業界だけじゃなく映画業界に提案するなど、多角的に考える。

会社を存続させるためには、日本だけにとどまっていてはダメだと思った。細川さんの話題にも出た「劇団すごろく」に自分たちの劇団がのっかっていけるわけじゃないから。今は海外ツアーをし続けないと会社が回らない状況。そのためにツアー・ピース(ツアー用の作品)を作ることが大前提になってきて、美術の規模、俳優の人数などに制限がかかってくる。それはクリエーションにとってどうなのかという懸念は持っている。ただ、岡田さんは各国の劇場から仕事が来ることがあり、その時はツアー・ピースでなくてもいいので、もしかしたら海外の劇場では潤沢な予算で好きなことが出来るかもしれない。そういったことが増えて、段階が変わってきた。

報告者2:
このグループには仙台、沖縄、東京の人たちが集まった。中村さんご自身もそうであったように、東京から脱して地域に移り住んだ人もいたためか、「日本の状況が変わってきた」という話になった。海外に行くと、たとえばランチが1500円もして、日本は貧乏だと感じる。もう、お金は円よりユーロかドルで持っていた方が安心じゃないかとも考える。細川さんの時代から30~40代の制作者の時代への変化があり、さらにその先の時代へと既に変わり始めている。それぞれに新しく模索していくことになると確認した。

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【細川グループ】

報告者1:
細川さんの自分史として、最後に関わる世代が本谷有希子さんの世代になるという話があった。30代の制作者は本谷さんや長塚圭史さんの活躍を見て制作を始めてきた世代でもあり、「あのビジネスモデルに自分たちは到達できないんじゃないか」という感覚がある。それゆえか海外進出への流れも出てきた。今を象徴する出来事として、2008年の雑誌「ぴあ」の休刊や、中劇場の客席がなかなか埋まらない現実がある。

細川さんの発言は主に以下の通り:別に自分たちに魔法があったわけじゃない。たとえば雑誌掲載やテレビ出演が、特に人気が出るきっかけなったわけでもなかった。第三舞台の旗揚げ公演は早稲田大学での無料公演で300人の集客。第9回公演の紀伊國屋ホールで4500人を達成した。クチコミでそこまで広がっていったのは、今も変わらないんじゃないか。キーワードは「2勝1分け」。そのペースで公演を続けていかない限り、伸びていかない。よく若い劇団が次の公演の面白さを熱く語るが、そうじゃなくて前回公演が次回公演の最大のパブリシティーである。また、第三舞台も81年、83年、85年に『朝日のような夕日を連れて』を再演し、キラーコンテンツとして定期的に上演してきた。

報告者2:
劇団は「2勝1分け」を繰り返すべきで、「2勝」のうちの1つはキラーコンテンツの再演。劇場に関しては新橋演舞場を例に出して「匂いが一貫している」とおっしゃった。本多劇場、紀伊國屋ホールは匂いが一貫していない。だからそこにはお客さんが付かないので、「今日(いつもの劇場に)行ってみよう」とはならない。

プロデュース公演は1本ずつが勝負だが、「テニスの王子様ミュージカル」をはじめ「2.5次元ミュージカル」に分類される「黒執事」「弱虫ペダル」のように、人気出演者を目当てにするのではなく、ある種の企画、演目によって観客に好かれるものが登場した。発明という言い方をされていた。この話は商業的な公演にだけに当てはまることじゃなく、演劇一般に適用できる考え方だと思い、すごく参考になった。

報告者1:東京オリンピックが開催される2020年がキーワードになることが多いので、細川さんの世代から2020年はどう見えているかと聞いた。細川さんの発言は主に以下の通り・・・小劇場から規模を大きくしていった劇団の俳優である阿部サダヲが2010年に40歳になった。それを超えて2020年になると、80年代に活躍してきた俳優やアーティストが50代、60代になっていく。次の世代はどうなっていくのか。2020年以降については、社会全体の空気に希望が持てなくなりつつあるんじゃないか。徴兵制が気になっている。

細川:
徴兵制については演劇人は闘わないとね。断固反対とね。

≪所感≫
30代の制作者3人と50代の細川さんの間を、40代の伊藤さんが橋渡ししてくださり、第1回目のテーマ委員会と同様に(残念ながら私は第2回は不参加)、1980年代から2010年代の首都圏の舞台芸術業界の変遷をおさらいできた気がしました。それぞれの世代が見つめる2020年以降については、視界があまり良いとはいえない中で同じ景色を共有しつつ、それぞれが別の方向性を見出していくのであろう、多様かつ多彩な未来を想像できました。

私は中村茜さんのグループでお話を伺い、東京とその他の地域、日本とアジア、日本と海外という構図から視野を広げることができました。報告でも申しましたが、時代が既にガラリと変化したことを皆さんと共有できたように思います。

「忍法・知らん顔」「2勝1分けの法則」といった細川さんから伺ったキーワードは、目から鱗が落ちる思いがするとともに、今すぐに自分の仕事だけでなく生活にも適用できる重要なアドバイスでした。ありがとうございました。

文責:高野しのぶ