【レポート】政策提言調査室 第2回勉強会

2016.11.2

日時:2016年9月25日(日)17:00~21:00
場所:国際舞台芸術交流センターPARC 会議室

8月から始まったこの政策提言調査室の勉強会は、ON-PAMが将来「政策提言(アドボカシー)」を行うことを見据え、普段から活発に議論を交わし、思考を磨いていくこと、そして特に今年はON-PAMのステートメントを作ることを目的に、多様な議論の種を持ち寄り、参加したメンバーで積極的なディスカッションを行なうとともに、勉強を重ねています。
今回で2回の勉強会を開催しましたが、毎回とても新鮮な発見や驚きに溢れた深いディスカッションが交わされ、私自身、とても刺激を受けています。毎回、一定のメンバーが入れ替わることによって、新しい意見や風が取り入れられ、それぞれの立場からの多様な視点が交わることで、さらに議論に深みが生まれていると感じています。
ON-PAMの活動は、自らが積極的に関わることで、より強い意義を生み出すものです。レポートなどの結果のみが成果ではなく、そのプロセスに参加することで、自らの血肉となり、仕事の原動力になるものだと実感しています。
この議事録を読まれて、少しでも興味が湧きましたら、是非、次の勉強会にも積極的にご参加ください。

さて、第二回の勉強会では、第一回を受け、それぞれがこれまでのON-PAMが行ってきた活動(委員会やシンポジウムなど)のレポートを再読し、「舞台芸術の公共性」や「ON-PAMのアイデンティティ」について触れられている箇所を抜き出してきたものを議論の糸口とし、参加頂いた9名(3名はSkype参加)と忌憚のない意見の交換、ディスカッションを行いました。

※参加されたのは以下の9名です(敬称略)。
奥野、藤原、崎田、古元、平井(途中参加)、北川(途中参加)、塚口(skype参加)、横山(skype参加)、山口(skype参加)
平井さんは非会員で、今回初めてON-PAMの活動に参加されました。

以下、非常に長くなってしまいましたが議事録になります。是非、お時間ある時にご一読ください。

①奥野より、なぜこの勉強会が始まったのか、経緯の説明
今年の3月、京都にてON-PAMの総会を実施した時に、より積極的に「政策提言」について取り組んでいくことが挙げられた。それを受けて「政策提言調査室」が立ち上げられた。また、7月には第2回テーマ委員会にて、元企業メセナ協議会にて、政策提言の事務局を務められていた若林朋子さんをゲストに迎え、具体的に企業メセナ協議会がどのように政策提言をまとめ、行ってきたのかをお伺いし、その中で、定期的に「研究部会」が行われていたことを知り、「政策提言調査室」においても月に一度のペースで「勉強会」を行うことから始めることとした。また、その「勉強会」の目標として、今年中にON-PAMのステートメントを言葉にすることとした。
勉強会は、私たち舞台芸術制作者が日々の仕事を通じて感じているリアリティや実感を元に、ディスカッションを行っていきたい。同時にひとえに「制作者」と言っても様々なスタイルや関わりの元で仕事をしている人が集まることで議論に多様性が生まれる。毎回メンバーが少しずつ入れ替わることも、話の方向性に幅が出て良いことだと考えている。

②奥野より前回の勉強会の簡単な振り返り
ON-PAMの会員分析を行い、それを糸口に議論を開始した。
横山さん(SPAC)、西山さん(国際交流基金)など公共体の中で制作者の専門性が認められていない現状があること、だからこそ、制作者としての職能・専門性を確立する必要性を感じていることがトピックとなった。
同時に、舞台芸術の公共性を一番理解し、それを実現する能力があるのが「制作者」であることを、主張していく必要があり。そのためにも「舞台芸術の公共性」についてもっと掘り下げ、きちんと言葉にしていく必要がある、という流れから、これまでのON-PAMの活動の中で、公共性が語られているものを次の勉強会までに探してきましょう、ということになった。

③奥野より「ON-PAMレポート2013」からの抜粋を発表
「ON-PAMレポート2013」を読み、「舞台芸術の公共性」や「ON-PAMのアイデンティティ」について語られている部分をピックアップし、発表を行った。この中でも特に奥野が重要だと思ったのは以下の部分。

「舞台芸術の制作者によるネットワークを発足させ、情報共有や時事的なトピックについて議論を行いながら、舞台芸術の外部からも認知・信頼される、広義のアドボカシーを行う」。私たちのような同業者による集まりは、どうしても業界の内向きになり、芸術家やその関係者の権利を擁護する方向に傾きがちですが、会の目的をそこに留めないことを確認したからです。「広義のアドボカシー」とは、芸術の制度を下支えする行政だけでなく、私たちが属する業界そのものに向けられたものでもあります。さらに言えば、舞台芸術の社会における存在意義、つまり芸術が社会に利する可能性について認知・普及を行っていくということも含まれるのです。これは、舞台芸術と社会をつなぐ存在である制作者のネットワークだからこそ語るべき理念として、いつでも立ち戻ることのできる立脚点となりました。

文化政策とはなにか、政策とはなにかといえば、「政治的にこういうことが国家やこの地域に必要だ。だからこの金を用意する」ということですね。行政サービスというのは、「省庁、行政が一定の予算でその関連する業界を育てたり、保護する」という考え方です。 それで、今の芸術文化振興基金とかは、行政サービスに近いお金の配分になってるわけ。「この人、この団体を今の日本は必要としているので、こういう判断の元にお金を使います」といってるわけじゃない。「こういう申請が来たので、お応えしました」というふうになってる。これは行政サービスなんです。だから方針がないんだよね。今演劇界は、文化政策として行われてるものはあんまりない。要するに全部、行政サービスとしてお金が出てる。この考え方をあなた達の世代で転換しないとダメだね。あなた達は社会事業やってるんだと、演劇というのは一つのステップであって、社会の再建を担ってるんだと言った方がいいと思うんです。

文化再生のために演劇はものすごく必要です。なぜ必要かというと、話すことがあって相手に影響を与えたい、というのが演劇人の仕事だよね。スポーツは相手に勝てばいいけど、我々は見ている人に影響を与える。そのために言語を必要としているんだし、何のために言語を使うかといえば、よりよい社会を作ってもらいたいために使うんだ、と。よりよい社会とはなにかといえば、人間関係の道徳がきちんとすること。そのために教育じゃなく、文化が必要なんです。強制的な規律が道徳ではないですね。お互いの精神のルールが道徳なんです。そのコミュニケーションの豊かさを作っている一番が、ギリシア時代以来、演劇なんです。二千数百年、演劇はずっと「道徳とはどうあるべきか」ということをずっとやってるんだよね。「親と寝ちゃいけない」とか、「父殺しはいけない」とか、これこそまさしく、ずっと演劇で道徳について考えてきたわけです。

一つの集団とか一つの民族とか一つの国家がまとまっていくためには、言語はどのように使われていかないといけないか。一つの民族・国家をまとめていくときに一番重要な政治的課題なんですね。その課題に芸術のうちの演劇が最も応えたというところが凄いんですよ。で、それが演劇のヨーロッパにおける社会的地位の高さなんです。一方日本なんか300年間も戦争もなく平和でいられた国民なんですよね。そういうときに蓄積された人間関係の知恵というものが、歌舞伎や能やお茶でも、日本の伝統、集団のつくり方のなかにあるんですよね。これはアジアの凄いところなんです。つまり、共同性、集団性ということのなかで、「こういうふうに人間関係はつくってかなきゃいけないし、こういうふうな空間感覚を育ててかなきゃいけない」という感覚。言語じゃなくてもね、肌触りが合うとか、息が合うとかね。なんだかわからないけど、ともかくそういうふうに人間関係が言語を使わなくても成り立っちゃうというような、人間についての身体的な感覚というのが、アジア人は豊かだったと思うんですね。違いを強調するんじゃなくて、同質性のほうを大事にするということをしている。一方ヨーロッパ人は違いを強調しますね。これは両方必要なんです。違いもあるけれども、同じであることも大事だんですね。
そういう感覚でつくられた知恵、芸能というのが私はアジアに特徴的な「調和」だと思う。

公共劇場は政治性を扱うべきだという立場です。これに関して2つあるんですけど、1つは劇場が政治に関わるって言うのは、今日、明日という立場ではなくて非常に長いスパンで関わるんですよね。劇場は今までと違うフォーカスを持ち、ものの見方を変えるという役割を持つべきだと思います。ロングタームで長いスパンの見通しをもって地域と関わっていくというのは、ある意味でものすごくリアルな政治性なんですね。そのときに街がどのように考えるか。長い期間でものの見方を変えていくというのは、公共劇場の大きな役割だと思います。

どちらかというとドイツではカルチャー・芸術の価値とは何か、ということが議論になっているのが大枠です。その中でも基本的な考え方としては、「芸術は社会で必要である」という考えが基本です。なので、その考え方をもとにして議論を進めていきます。そして私が思うには、アートというのは「問題を解決する」為でなく「問題をつくる」為にあります。アートというのは基本的に何かを現前化させる必要がありますね。

<コメント>
・社会へ向けたアドボカシーは、アウターブランディングであり、業界へ向けたアドボカシーはインナーブランディングである。
・業界の権利を守るということは、果たして無しなのか? 会員によって何故ON-PAMに所属しているのか、という意識に大きな差がある。
・広義のアドボカシーを行うことが引いては業界全体の地位向上に繋がる。
・今の業界内の特定の政治力を持った人物が、業界全体を引っ張っていくようなやり方ではなく、社会全体の中で、舞台芸術の価値がオーソライズされていく必要性があるのでは。特に今後より少子高齢化社会が進み、人口が減少し、より文化にかけられる予算が減っていく中で、それでも舞台芸術に人がお金を払おうと思ってもらうためには、より社会的な認知向上が不可欠である。
・ON-APMは特定のアートの分野で縛られていないから支援しやすい、いかにフラットかということも重要だと思う。
・ON-PAMが舞台芸術そのものをプッシュしていくという方向を明確に打ち出せれば、どこに寄付すれば良いのか判断しかねていた人の受け皿になりうるのではないか。
・アートが有効に使われる、ということの功罪。包括的にアートが政治的に・コミュニティにとって必要になっている。それがサービスの中に押し込まれているのでは?
・公共性と政治性と社会性をどう捉えるのか?
・「芸術は社会に必要だ」と「公共劇場は政治性を扱うべきだ」ということは全くことなる次元の話。
・教育やスポーツ、政治にはできない、アート「だけ」ができることは何か?

④崎田より「ON-PAMレポート2014」からの抜粋を発表
「ON-PAMレポート2014」を読み、「舞台芸術の公共性」や「ON-PAMのアイデンティティ」について語られている部分をピックアップし、発表を行った。この中でも特に崎田が重要だと思ったのは以下の部分。

芸術見たからといって必ずしも飢えが凌げるわけではないし、どういうふうになるかわからないけど、コーヒーを飲みに来て、みんなの顔見ておしゃべりしてるだけで気が晴れる、ということが非常に重要で。前衛的なわけわかんないものを観るにせよ、どんな娯楽作品を観るにせよ、劇場に来ることによって社会を知る。人と一緒に観る。「コーヒーは芸術だ」と思ったんです。
でももしかしたら芸術がその人にとって何か勇気を引き出してくれたり、何かのきっかけになるんじゃないかと。そうやって僕自身も何度も劇場でかけがえのない経験をしたことあるし、そういう機会になるんじゃないかな、と。だからほんとに、公共ホールでこれをやらなきゃダメだと思うけど、現状の日本ではこれはできない。なぜならば、レパートリーを持ってないし、貸館やってるから一律のチケット代金にできない。

地域のために地域のアーティストが何かをすることは、同じベクトルを向いているから、限界が早い気がするんですね。むしろ、地域のアーティストが地域を裏切るようなことをする、あるいは外から来た旅人たるアーティストが地域を裏切るような視点で何かをするとき、コンフリクトが起きるかもしれない。でも、それによって地域の価値が撹拌されて違う出口に出る。そういうことを、一見対立する二つのものを一挙両得的に実現するためには現実として考えるべきな気がします。
新聞とかから、批評批判があって議論が生まれ注目を浴びる、考えさせられるという作業が新しい創造、エネルギーのはけ口かもしれないし、それがアートの原点なのかもしれない。
そして我々の世代の制作者に対して、「もっと演劇人が政治家を動かして文化政策として推進する態度が必要だ」と繰り返し仰っていた。

5 年目を迎える「KYOTO EXPERIMENT」が今目指すことは、東京を経由しないダイレクトな都市間ネットワークの形成、都市の文化的アイデンティティーをそこに居る人のもとで更新すること、そして責任あるプログラミングの継続。公立劇場やフェスティバルの事業は誰がどういう狙いで発表するのかが曖昧だと感じてきた。劇場やフェスティバルが「観客が楽しければそれでいい場」ではなく、「芸術の価値を問う場」であるために、責任を持って意志のあるプログラミングをすることを、「KYOTO EXPERIMENT」では守っていきたい。

舞台芸術関係者は、芸術文化は社会に対して有効で、価値があり、必要であることを前提にしすぎてしまっている。でも、生活の中に含まれているものもまた、芸術文化に影響を与えるのではないか。 生活を通じて芸術に働きかけるベクトルがあると思う。「芸術が生活に役立つ」という方向で語りたくない。相互に影響を与え合うことが、芸術が社会に存在する意味ではないだろうか。

プログラム・ディレクションという職能は、 まだまだ日本での認知は低く、今後さらに活躍が期待されるポジション。劇場やフェスティバルがどこを目指しているのかがはっきりしていることで、プロジェクトの未来/次代の人材を作る礎になる。みなさんは、将来に繋がる下地をつくっているとも言える。プログラム・ディレクターとして、対外的に窓口を明確にすることにより、現在から未来に繋げるビジョンが貫かれ、地域の観客や協力者との信頼関係が深まり、活動が充実、今後の課題も明確なっている。
さらに「顔」がはっきり見えることにより 国際的な広がりが生まれやすい。第2の共通点としては、多分野、領域横断的な活動への意識が高まっている傾向がある。文化庁も意識していることであった。さらに横断的な関係性、芸術領域に留まらず、お客さんとアーティスト、プロデュース側と観客、サポートする側、される側などにもおよぶ。さまざまな立場の人々が、あるときはサポートする人、あるときはサポートされる人となるように、可変的にゆるやかなネットワーキングで結ばれるような相互関係をより多く築くことがプロジェクト成功のキーポイントかもしれない。最後の共通点としては、 都市や街のアイデンティティーを意識し、その土地にあったコンテンツをカスタマイズし、新たなニーズを掘り起こしていく手腕。

我々の仕事は国民の10年後の幸せにつながる芸術活動であるべき。演劇をもっと身近にするには、演劇の世界以外に糸口があるのでは。我々が望む姿は、言葉としてはすでに存在している(例えば文化芸術推進フォーラムの提言)。現場の我々が地に足を付けて何を言えるか。敢えて極端なことを言うべきではないか。提言はスペシャルであるべき。

ON―PAMは「利益代表ではない」という ことを言葉で示したい。ON―PAMの提言としてもいいぐらいだと思う。ON―PAM国際交流委員会には海外の人もいる。業界の外の人ですら参加できている組織である。成果を享受できる人の範囲が広い。 そして現場に近い人たちの声であること。画期的なことになりうると思う。
「利益代表をしない」とは何なのかを具体化したい。「使い勝手がいいように制度を変えたい」だけで、陳情をしに来る業界団体と何が違うのか。 ともに公共を実現していくというスタンスで提案するスキルが必要。「ON―PAMとともに何かを考えると、こういうメリットがある」と伝えたい。
ON―PAMとして、個人であることの強みを生かし ていくのが非常に大事。組織では目指せないことが ON―PAMではできる。個人の集まりであることは 同時代的。

ON―PAMのアイデンティティーは個人の オープンな集まりであること。ON―PAMの目指すべき姿、利点、アイデンティティーを洗い出して、 個人の集まりでしかできない、個人の集まりならで はのことを、提言する。ON―PAMは利害を超えて 集まっている個人の集合体だから、経験と状況をシェアできる。組織だとできない。立場や既得権を 背負うと、それを守って抱え込まなければいけなくなる。生き抜くためには必要なことだが、すでにそういった考えはレガシー(遺産)になっていると思う。シェアすることで世界全体がボトムアップでき る。それをインターネットが支えている。情報を独 占して利益を得ていた人たちが、突き崩されている。 ON―PAMはもっとオープンにシェアする方向に、 舵を切る必要がある。

まだ我々自身がON―PAMの武器が何かをわかっていない。 我々はアーティストと近い。それが強み。そして共感する人を組織することが出来る。根っこをつかんだところにいる。お客さんとアーティストとそれ以外をつなげられる。そしてもう1つの我々の強みは、しがらみがないこと。個人の集合体だからできることがある。
組織を背負わない個人であることは最大の強み。個人同士として出会えることもチャンス。

ON―PAMには制作会社や劇場関係者、助成金を出す側の人がいる。上下関係にある人たちもいる。約 150人の会員の中には演劇界のステークホルダーもいる。そんなステークホルダーらが平等に話し合える場がON―PAM。
ON―PAMのような組織の活動は、表現の自由にもつながるのではないか。組織に所属しつつ、 個人の声を言える。

「新しい制作者」の定義を考え、自分からアップデートする。 制作者は助成金申請以外の活動もしているし、劇団制に基づいた制作者とは違う役割もある。そして制作者には表現したい社会像がある。価値を作り出す のはアーティストだけではない。ON―PAMが新し い制作者像を示すことで、旧来のイメージを刷新できる。ON―PAMは必然性を持って生まれてきた。 歴史の経緯を踏まえつつ、未来へ向かう言葉を出していきたい。
制作者はお客さんと向き合っている。5~ 10年後の若者がどうアートとかかわっていくのか を考えられる。

ON―PAMは表現者と近くて、モノづくり とは何かを知っている集団。ノウハウだけでなく、 研究者には持てない現場のリアリティーを持っている。制作者はスキルを共有し、勉強して高め合っていく。ON―PAMが制作にかかわるさまざまな専門スキルに開かれているのも同時代的。組織では疲弊が起こりがちだが、制作者は個人で学べる。制作者は色んな所に行けるから、ノウハウやスキルが個人に蓄積されていく。

プロダクション・マネージャーはプロ デューサーとは能力が違う。アーティストの力を引き出し、周囲の人たちと円滑に、すべてのスタッフ に100%の力を発揮させるのが仕事。ヨーロッパでは広報、プロダクション・マネージャー、プロデューサーは別の仕事。分業するので当事者意識が 薄くなる傾向がある。日本の制作者は何でもやる、 スーパーな制作者。

「新しい制作者」の特徴は 「ジャンルを横断する」「マルチディシプリン(多分 野に専門分野を持つ)である」ことだと思う。色んなジャンルと交わって、輪郭が広がっている。そこ でリードしていくこと。演劇のことだけをやるのではない。今求められていることのひとつだと思う。
Creative Producerとは創造する制作者というよりは「創造的な制作者」。問題をクリエイティブに解決するプロデューサーのこと。

(提言の方法において)最もクリエイティブでないのは、文句を言うばかりの陳情型。公の組織にON―PAMがアプローチする場合は、Win―Winの関係を作りたい。舞台芸術業界全体が「文化政策=文化庁」という構図にしてしまっていることは良くない。色んな政策に複合的な視点が必要。そういう意識を我々の側が持っていないと、すぐに陳情型になる。制作者は社会とアーティストをつなぐ人。 表現は個人にしか立脚しえない。でもいい作品を作 ることへの情熱は共通しているはず。制作者が個人で立脚し、それぞれが信じる価値観を持ち、未来の観客ともシェアする。個人で立脚すれば、スキルを 個人に蓄積できる。まわりまわって舞台芸術業界全 体に貢献できる。そんな風土をつくっていきたい。

私の場合はアーティストを起点に考えるんです。 アーティストのやりたいことや作ってる作品や彼らの面白さというものを、どういうふうに他の劇場なりフェスティバルなりに呼んだ時に、化学反応を起こせるかを考えるんです。
アーティストはアーティストでそのままそこに居ればいいのですが、その仲介になるディレクターや行政は、何かと何かを繋げる役割としてある種の翻訳が必要なので、その翻訳が重要だと思います。だからこそ、私たち制作の立場も活かされていると思います。

<コメント>
・舞台芸術に携わる制作者やアーティストの実感のこもった言葉には力がある。そういった力をもった言葉をステートメントに取り入れていきたい。
・そもそも何故この業界に関わるようになり、仕事をするようになったのか?
・自分の関わった作品を観た人が、他の人に観たほうが良いと勧め、口コミで作品が拡がり観客がどんどん増えていく経験をし、とても興味深いと思った。
・なぜ、他の人に勧めるのか? 例えば、美術や映画、音楽などに比べて、舞台芸術はオススメしたくなるのか?
・ある人が作品を観て、強い感銘を受ける、しかもそれを友人などに勧めたくなる、というのは「舞台芸術の公共性」に通じるものがあるのでは?
・ある目的を達成するための「手段」として芸術が役に立ちます、というような切り口で、「芸術の公共性」を語ろうとするのは、逆に芸術の持つ可能性を狭める危険性がある。
・芸術の副次的な波及効果を期待することや、その結果、社会の役に立つことは全く否定されることではないが、まずは芸術そのものが「目的」であるはず。

⑤藤原より「既存団体の文化芸術の公共性・社会的意義に関する記載」についてのリサーチ発表
休憩を挟み、文化芸術振興基本法や劇場法、ON-PAM以外の既存団体のステートメント等における、文化芸術の公共性や社会的意義に関する記載について、リサーチ結果の発表が藤原より行われました。

基本法である「文化芸術振興基本法(2001)に、文化政策の基本理念/基本方針が述べられている。これに基づいて個別法である「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」(2012)が策定され、また文化庁の施策である「文化芸術の振興に関する基本的な方針」(2015 第4次策定)が定期的に定められている。
調査対象団体に共通して見られる傾向は以下の通り。
・団体の考える文化芸術の公共性は、設立主旨等の形で記載される。
・一方で政策提言は、文言を「なぜやるか」の根拠として使用する形をとる。文化芸術振興基本法や劇場法に明記された内容に基づき文化芸術振興の方針を策定したり、「劇場,音楽堂等の事業の活性化のための取組に関する指針」に基づき具体的な施策を立案にする際、何を、どのようにすれば効果的かということを提言する形が多い。

「文化芸術振興基本法」より抜粋
・前文
文化芸術を創造し,享受し,文化的な環境の中で生きる喜びを見出すことは,人々の変わらない願いである。また,文化芸術は,人々の創造性をはぐくみ,その表現力を高めるとともに,人々の心のつながりや相互に理解し尊重し合う土壌を提供し,多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成するものであり,世界の平和に寄与するものである。更に,文化芸術は,それ自体が固有の意義と価値を有するとともに,それぞれの国やそれぞれの時代における国民共通のよりどころとして重要な意味を持ち,国際化が進展する中にあって,自己認識の基点となり,文化的な伝統を尊重する心を育てるものである。

・第二条(基本理念)
文化芸術の振興に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。
文化芸術を創造し,享受することが人々の生まれながらの権利である

「 劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」より抜粋
・前文
劇場、音楽堂等は、文化芸術を継承し、創造し、及び発信する場であり、人々が集い、人々に感動と希望をもたらし、人々の創造性を育み、人々が共に生きる絆を形成するための地域の文化拠点である。また、劇場、音楽堂等は、個人の年齢若しくは性別又は個人を取り巻く社会的状況等にかかわりなく、全ての国民が、潤いと誇りを感じることのできる心豊かな生活を実現するための場として機能しなくてはならない。その意味で、劇場、音楽堂等は、常に活力ある社会を構築するための大きな役割を担っている。
さらに現代社会においては、劇場、音楽堂等は、人々の共感と参加を得ることにより「新しい広場」として、地域コミュニティの創造と再生を通じて、地域の発展を支える機能も期待されている。また、劇場、音楽堂等は、国際化が進む中では、国際文化交流の円滑化を図り、国際社会の発展に寄与する「世界への窓」にもなることが望まれる。
このように、劇場、音楽堂等は、国民の生活においていわば公共財ともいうべき存在である。
これに加え、劇場、音楽堂等で創られ、伝えられてきた実演芸術は、無形の文化遺産でもあり、これを守り、育てていくとともに、このような実演芸術を創り続けていくことは、今を生きる世代の責務とも言える。

・第一条(目的)
心豊かな国民生活及び活力ある地域社会の実現並びに国際社会の調和ある発展に寄与することを目的とする。

「 文化芸術の振興に関する基本的な方針」(第四次基本方針)より抜粋
日本の文化財や伝統等は,世界に誇るべきもの
経済成長のみを追求するのではない,成熟社会に適合した新たな社会モデルを構築していくことが求められている
諸課題を乗り越え,成熟社会に適合した新たな社会モデルの構築につなげていく

アートNPOリンク「淡路島アート議定書」より抜粋
芸術は社会の課題解決と無縁でなく、「新しい公共」を実現する上でも大きな役割を果たす
芸術文化はもともと社会の中に存在し、人々の生活の中に息づき、生活のリズムを産み出していました。地域のお祭りが象徴するように、人々は芸術文化を自在に楽しみ、味わっていました。それらの機会において、人々は日常の生活を超えた「ハレ」の芸術に対して、時には敬意をはらい、時には畏敬の念すらもつこともありました。
アートNPOは、人々のつぶやきを拾い、気づかざる価値に光を当てることによって、地域を変える創造力を喚起し、それを育んでいきます。
地域ブランドを確立するためには、非営利活動による高い公益性に基づいた取り組みが不可欠
アートNPOの活動は、創造性を発揮する芸術家(アーティスト)と地域との「つなぎ手」となることによって、地域の課題に対処の方法を見出し、人々の暮らしに埋め込まれている問題点を明らかにし、人々が日常生活において忘れていたものに気づくきっかけをもたらす取り組みである
アートNPOとは、人々のつぶやきを拾い、気づかざる価値に光を当てていくことによって、地域を変える創造力を喚起し、これを育む当事者
芸術文化は、地域再生、地域コミュニティの再生はもとより、教育、環境、福祉、医療、さらには防災といった市民生活の全てに深く関わっており、これらの分野での活躍も拡大しています。
社会が芸術の効用を充分に得ることができるようになります。
アートNPOは、企業や行政との連携・パートナーシップが強化されることで、芸術家(アーティスト)が地域創造の起爆剤や触媒の役割を果たすよう、多様な分野の組織や機関、そして市民との連携に取り組みます。

文化芸術推進フォーラム
芸術文化は、そのような人間の根源的な欲求である「表現」が、積み重ねられ、洗練され、「結晶」したものといえましょう。さまざまな芸術文化の諸活動によって、人びとの感性が育まれ、新たな創造性を刺激し、文化のさらなる継承と発展が繰り返されてきました。
芸術文化は、人と人とをつなぎ、共同体の形成や、社会の安定と調和のために大きな役割を果たしてきました。情報技術の急速な発達によって、コミュニケーションのあり方から、経済・社会構造までが大きく変容をとげつつある今、みずからの文化アイデンティティに対する自覚を促すとともに、世界のさまざまな固有の文化を尊重する基礎を育むためにも、多様な芸術文化に触れることの重要性は、ますます高まっています。
トップからのメッセージ
「芸術・文化に触れた時に「楽しい」と人が感じるように、芸術・文化は人間のベースにある本来的な楽しみです。それによって感性が育まれ、価値観や思考のしかたが広がり、情緒性が伸びていく。そうすると社会そのものの質が豊かになります。」(尾﨑元規 企業メセナ協議会理事長)

企業メセナ協議会「ニュー・コンパクト」の継承発展 文化による社会創造、2020 年に向けた取り組み (2014)より抜粋
文化はそれ自体に固有価値がある。しかも、その価値は極めて多様である。
文化は、人々の感性に直接訴え、人々の心を動かす。だから、文化には社会を変える力があり、社会の様々な課題解決に創造的な提案をすることができる。

<コメント>
・「文化芸術振興基本法」では前文において、まずはじめに「文化芸術は,それ自体が固有の意義と価値を有する」と書かれている。(副次的な効果はその後に書かれている)
・「第四次基本方針(文化芸術の振興に関する基本的な方針)」の前文では、「日本の文化財や伝統等は,世界に誇るべきもの」と書かれている様に、文化財や伝統が重視され、それらが「世界に誇るもの」として日本人自身がその価値を認識すること、そして国内外への発信を強化すべき、との趣旨が強く打ち出された。
・文化芸術振興の意義として「人間が人間らしく生きるための糧」などの表現が前面に出てきたこれまでの基本方針と比べると、第四次基本方針は文化を「資源として活用」するものとして捉えている感が強くなっている。
・「文化芸術振興基本法」に書かれている「これまで培われてきた伝統的な文化芸術を継承し,発展させるとともに,独創性のある新たな文化芸術の創造を促進すること」とは、大きな隔たりがある。
・なぜ「芸術」と言わずに「芸術文化」と言うのか。「芸術」だけだとやはり難解なものとして、理解が得られにくいからだろうか?
・芸団協の各提言は、加盟団体からどのような意見が出たかということの紹介・分析が丁寧されている。賛否が分かれる案件についても設問が適切に設けられることで、その割合なども可視化される。芸団協が「実演芸術に関わる基礎的な調査」を定期的に実施していることも、提言の方向性を決めるために有効に働いているように見受けられる。
・「舞台芸術の公共性」を語る時に、芸術を手段とした公共性を語るではなく、「芸術それ自体の価値」について語ることは出来ないだろうか?
・現場に近く、アーティストと共に仕事をしている人の多いON-PAMだからこそ、「芸術それ自体の価値」についての言葉を持っているのではないか。
・次回は「芸術それ自体の価値」について焦点を当てて議論をしていきたい。

⑥山口より「公共圏」という考え方について
演劇は社会を映す鏡であるとドイツではよく言われる。議論に誰でも参加して良く、自分たちの社会の状況を取り上げ、議論していくのが「公共圏」(注:定義は要確認。公共圏=公共性ということもあるようです。その公共性は、ON-PAMの皆さんが描く公共性とはずれがあるかもしれません。また、public space とも耳にしたことがあります。私ももう少し調べます)。劇場はそういった公共圏の一つだと理解している。
ドイツでは文化と教育については国が介入せず、文化政策も州・市など自治体が行い、多様性が確保されている(→ここで言いたかったのは、各地の公共劇場はその文化政策の中に位置づけられているということです)。一方国際協働プロジェクト、とりわけヨーロッパ地域以外との協働については、連邦文化財団など連邦(=国)レベルで助成金を出して促進している。
「公共圏」については、哲学・思想の学者三島憲一先生が詳しい。著書「現代ドイツ(岩波新書)」などでドイツの市民社会の発展を知ることで、社会における芸術(ここでは演劇)の必要性のロジックを理解する手がかりがみつかるのでは。

⑦横山より「文化」と「芸術」の違いについて
勉強会終了後、横山より以下の意見がメールにて届いたので、共有します。

近年の文化政策において、芸術よりも文化、それも伝統文化に重点が置かれつつある事は、「芸術」に対する不信感の表れだと思います。ここで、「芸術」の役割をきちんと定義し、主張できないと、今後の「舞台芸術」の振興は難しいでしょう。

ただ、一方で、「芸術」に対する不信は、ある意味で、根拠がないものではありません。そこをきちんと踏まえて、複眼的に議論を進めていかなければ、説得したい相手との議論が平行線に終わってしまう可能性が高いでしょう。

「文化芸術振興基本方針」の変化は、「文化」と「芸術」の切り分けが(1)から(2)へと移行していることを示しているように思われます。

(1)
文化:すでに人口に膾炙したもの
芸術:先進的で創造的なもの

(2)
文化:多くの人が理解できるもの
芸術:選ばれた人しか理解できないもの

おそらくは、「基本方針」を策定する人(あるいはそれを指示する人)のなかに、(2)の切り分けで考える人が増えているということでしょう。

この二つは、「同じようなこと」を言っていても、実はかなり違う話です。この二つの芸術という概念についてのイメージの乖離には、けっこう根深いものがあると思います。ある意味で、これは今日の日本において、二つの思考法の分裂がいよいよ進行しつつあることを象徴しているようにも思えます。例えば、現政権を支持するか否か、といったことでもあります。今、政策提言をするのであれば、当然、現政権の支持層にも十分に訴えかけるものでなければなりません。

この乖離は、一つには、日本における近代化の歴史に起因するものです。「文明開化」の時代には、エリートは西洋に留学し、「近代的」な「芸術」を日本に持ち帰ってきました。西洋近代において、「芸術」は、「天才」によって新たに創造される、凡人には思いもよらなかったもの、として定義されるようになっていました。これは、日本における芸能や技芸の概念とはかなりニュアンスを異にするものでした。だとしても、このような芸術概念自体は、おそらくこれまでは、「保守派」と「革新派」のあいだで大きな争点になるようなものではなかったと思います。結局のところ、政治的エリート層のあいだでは、ある程度の「(西洋的)教養」が共有されていたということではないかと思います。ところが近年、これが崩れてきて、(2)へと移行しつつあるのかも知れません。(その理由についてはややこしい話になりそうなので、ここではやめておきます。)

ON-PAMとして「舞台芸術」の振興を提言するのであれば、以下の立場を採る必要があるでしょう。

(3)
文化:すでに多くの人に共有されているもの
芸術:先進的で創造的だが、多くの人に共有されうるもの・されるべきもの

ただ、(2)の枠組みでものを考えている方々に、(3)を納得してもらうのは、それほど容易なことではありません。これを納得してくれるか否かは、(3)のようなものにどれくらい実際に触れたことがあるか否かに大きくかかっているのだと思います。そうでない方に対して、どう語りかければいいのか。

例えば、多様性とか、対話といったキーワードが簡単には響かない層もあるということを意識する必要があります。だからといって、使わないほうがいい、と言う意味ではありませんが。自分のまわりはそんなに「多様」であってほしくない、なるべくなら自分と価値観を共有している人たちだけで生きていきたい、と思っている人に、どうすれば「多様」な人と出会った方が楽しい、と思ってもらえるか。

その場合には、すごく技術的なところでは、言葉の来歴にも意識する必要があります。例えば平田オリザさんがいう「新しい広場」という言葉の参照項は井上ひさしによる宮沢賢治をモデルにした戯曲『イーハトーボの劇列車』でした。これは、ある意味で平田オリザさんのうまいところで、井上ひさしは共産党に近い立場でしたが、宮沢賢治は国家社会主義に近いところにいた人で、右とも左ともつかない不思議な位置づけになっています。とはいっても、これも誰もが「新しい広場が必要」と思っているわけでもありません。

もっと本質的なところでは、「多様性」と積極的に出会いたいと思っていない人でも、それまで(いわゆる「芸術」ではなくても)「知らないもの」と出会って楽しかった、興奮した経験がないわけはないので、なんとかそういうところに響くような例や話し方を見つけていくしかないと思うのですが・・・。ここから先は私も悩んでいるところなので、お知恵がありましたら、ぜひ。