【レポート】2/17 ON-PAMシンポジウム2「(改めて)公共性とは何か?〜公共圏の創造を目指して」

普段、ON-PAM MLを「トーキョーアーツのれん会」の告知ばかりで使っているので、少しはコミュニティにも貢献せねば、という想いで今回のシンポジウムをレポートします。

ON-PAMシンポジウム「(改めて)公共とは何か? ~公共圏の創造を目指して」は、TPAMの期間中にBankART Studio NYKで行われた。オーディエンスには海外からの来場者も混ざって参加していたのが印象的。「ニッチから公共の場へ」という講演テーマがすでに心に刺さる。私達の仕事は、現代社会のニッチなのだ。だが、本来芸術文化は公共を担う最たるもののはず。社会の隙間で、ちまちまやっている場合ではない。

シンポジウムの冒頭、本イベント企画者の奥野将徳氏から趣旨が説明された。
昨今、制作者が自身の言葉で「舞台芸術の公共性」について語る場面が多くなってきた。その時、「公共」という言葉について、どれくらいの実感を持って使っているか、語り手や受け手の「公共」の定義は同義か、改めて「公共」という言葉を定義したい。哲学、社会学のフィールドで「公共圏」の専門家である三島憲一氏の話を聞き、その後、会場メンバーとのディスカッションを持ちたい、とのことだ。

公共圏とは、参加する人の立場や階層の利害に関係のないフラットに開かれた場で、具体的な行動となって目に見え耳に聞こえることであり、それは例えば飲み屋や家庭で議論することも含まれる。

日本では、役所の主導するものが公共と捉えられることもあるが、英語にすると行政側の取り組みと、公共の違いがわかる。前者はOfficialで、後者がPublicだ。例えば、過去の記憶に関するOfficialとPublicの違いは、行政の設置する戦争記念館などの公的なところと、ロンメル将軍、硫黄島の戦い、スターリングラードなど、映画になるような記憶がある。これがOfficialとPublicの違い。身分制の解消や結婚の自由、そして民主主義の成立に繋がった議論は、イギリスならコーヒーハウスで、フランスはブルジョワのサロンで、ドイツでは討論会で、文学や演劇作品について身分や年齢などに関係なく行われた議論の中から生まれてきた。

一方、エリート(Official)は公共圏を調和や協調という言葉で美化し、社会に抵抗しようとする人々を独自の空間(ニッチ)に閉じ込めてしまう、というアイゼンシュタットの言葉も紹介された。

日本の場合は、水俣病の記憶が新しい。具体的な健康被害に対して政府とチッソがこれを認めず、問題は長期化。長年の闘いにより補償を勝ち取るも、厚労省により「患者認定」のハードルを高く設定されてしまう。当局が公共圏を骨抜きにしていく代表例だ。一方、石牟礼道子の「苦海浄土」、田中正造の「直訴状」などが記憶として公共圏に残っている。私見だが、例えば昨今のアーカイブ議論において、記録は手付かずで残し、文脈を読み解くのは未来の人に託すべきという考えが一般的なのに対し、物語として残される記憶の強度についても議論されるべきではないかと感じていたのだが、この話を聞いて少しスッキリした。

話をレポートに戻そう。芸術文化においては、ジャンルのタコツボ化が閉塞現象を生む。ビエンナーレや芸術祭も業界の話として一般に響かない。一方、最近ドレスデンでパブリックアートとしてバスが広場に直立で設置された作品を巡る議論が紹介された(※)。これは、アレッポで住民が銃撃への盾としてバスを街なかに立てたことに呼応していて、美しい街並みが人気のドレスデン(第二次大戦末期に大空襲に遭った)にその風景を移植したものだが、ここで起こっている議論は芸術が喚起した公共圏の最たるものだろう。

改めて公共圏とは何か。それは議論の場から生まれるものであり、芸術作品には議論を起こす力がある。一方、芸術に強度があってもニッチに閉じ込められてしまうし、そもそも同質的なものはまとまりやすく、タコツボ化しやすい。だが、公共圏はOfficialに注文をつける場でもあり、その場をどう開くのかが制作者(媒介者)である私達に問われている。

会場からの質問も活発だった。例えば、経済が豊かになると公共圏は縮小するのでは?という問いがあった。だが、生活が豊かになって表現が弱くなったのは日本の特徴で、消費に満足して公共の場に出ていかない性質があるとした。また、生活そのもののアート化もある。個人的にスタイリッシュな生活を求める文化や、議論が続かない、議論しない文化も日本の特色だと指摘した。また、マレーシアからの参加者からは、デジタル空間の公共圏についての問いがあり、ポストトゥルース時代の現在、よく練られていないテキストやデマが公共圏を脱臼させている状態だろうという認識を示した。

奥野氏は、SNSなどの発達で断片化、ニッチ化、タコツボ化した公共圏からどう脱却するかを問うときに、舞台芸術のリアリティの伝達力に着目したいと言った。舞台芸術を、価値観の異なる人達と対話する技術、議論のトレーニングの機会を提供する社会部門として社会に開いていくこと、例えば、あらゆる人が集まるようなフェスティバルにそんな機能を付加していくことで一歩前に進めるのではないだろうか。この他にも、議論は尽きなかったが、時間がやってきた。最後に奥野氏が「今日の議論をスタートとして、まずは自分の周りから公共圏を作っていくことから始めてほしい」と締めくくった。

改めて、制作者とは、芸術と社会をつなぐ役割だ。つまり、社会に開くことが使命である。では、私たちは、そのための方法論の研究、実験、検証、技術開発にどれくらいのリソースを割いているだろうか。ジャンルに囚われず、社会を俯瞰で眺め、接続できる領域を常に探求する。文化政策はすべての住民にアクセスできる政策分野でもある。その強みを持ちながらニッチ(タコツボ)の中で温々としている場合ではない。「ニッチから公共の場へ」まさに私達に突きつけられた喫緊の課題なのだという認識を新たにした。

森隆一郎

*参考URL
https://www.pi-news.net/2017/02/dresden-schrott-busse-vor-frauenkirche/
http://www.huffingtonpost.co.uk/2015/03/16/syria-civil-war-fighting-conflict_n_6878090.html

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