政策提言調査室 第3回勉強会・第3回テーマ委員会レポート

2016.12.16

日時:2016年11月12日(土)16:00~19:00
場所:ロームシアター京都 会議室

ON-PAMのテーマ委員会と合同開催の形式を取り、政策提言調査室の第三回目の勉強会が京都で開催されました。
開催概要

ON-PAMが「政策提言(アドボカシー)」を行うことを見据え、今年度はその第一段階となるON-PAMのステートメントを固めることを目標にしています。第一回と第二回の勉強会の成果をもとに、「舞台芸術それ自体が持つ価値や公共性」というテーマで話し合いました。

参加したのは以下の14名(敬称略)。
参加者(自己紹介順):中山、井神、植村、青木、塚口、藤原、武田、川口、高野(レポート担当)、幸村、奥野、鈴木(途中参加)、橋本(途中参加・途中退出)、小倉(途中参加)

これまでの政策提言調査室、勉強会のまとめ
第1回勉強会のレポート
第2回勉強会のレポート

奥野:今年のテーマ委員会のテーマは政策提言。ON-PAMから何を、どうやって、なぜ提言するのかを、皆で勉強し、考えていこうと、第1回、第2回とやってきた。同時に、第2回テーマ委員会のゲストだった元メセナ協議会(公益社団法人 企業メセナ協議会)の若林朋子さんから、メセナ協議会が普段から研究部会を定期開催されていたと聞き、ON-PAM政策提言調査室でも定期的に勉強会を開くことにした。前回のテーマ委員会は神戸で、政策提言調査室の勉強会は第1回も第2回も東京だったため、次の勉強会は関西でやりたいという話も出ていた。テーマ委員会も勉強会もテーマは政策提言だから、第3回テーマ委員会の京都開催が決まったことを受け、政策提言調査室の勉強会も合同開催することになった。

過去2回のテーマ委員会、第1回、第2回の勉強会からの流れを説明する。今年の政策提言調査室の目標は、ON-PAMのステートメントを書いてみること。政策提言には大きく分けてふたつのパターンがあるだろう。ひとつはリアクション型(陳情型)。助成金制度のあり方が良くないから、こういう風に改善して欲しいと訴えるとか、文化庁の新しい方針に対して、こちらからより良い方針を提言するとか。もう一方はビジョン型。こういう社会になって欲しい、こういう未来のために活動しているんだ、という風に、自分たちがビジョンを描くタイプ。これは提言というよりステートメントに近いかもしれない。

ON-PAMは今、自分たちが何者で、どういう未来を描いているのかを、皆で共通する言葉を持てていない。何となく共通するビジョンはあっても明文化はされておらず、はっきりした言葉で語られていない。今年一年は勉強を経て、皆で話し合いながら、ON-PAMのステートメントを具体的に作ってみるというのが、テーマの1つになった。それに向けて第一回ではON-PAMの現状分析を行い、会員の年齢、地域、職能、職場(劇場、助成団体、制作会社~)等のデータを分析して、話し合った。第二回はこれまでのON-PAMの活動記録の中から、ON-PAMの特性、そして舞台芸術そのものの公共性について語られた部分をもとに、議論をしてきた。

ここ数年で、「文化芸術は社会のためにこういう風に役に立つ」という言葉が目立ってきた。文化芸術振興基本法、劇場法(劇場、音楽堂等の活性化に関する法律)ができて、公の場で「舞台芸術は社会の役に立つ」と明言化されることが増えたのもある。それはすごく良いことだし必要だけれど、芸術そのものの価値よりも、アート・イベントが行われることによって副次的に生まれる価値ばかりが注目されたり(例えばアーティストを地域にレジデントさせて、シャッター商店街にアートを展示する企画等)、「芸術は地域振興、文化振興の役に立つために存在する」という風にその価値を限定されたりするのは怖い。アートはそれ自体に価値があり、副次的な価値として文化振興やコミュニティの健全化が起こったりするのだと思う。

そういう風潮のある今だからこそ、舞台芸術それ自体が持つ価値や公共性とは何なのかを、もう一度、皆で振り返っておくべきなんじゃないか。舞台芸術の価値や公共性について語られる言葉は、曖昧だったりきれいごとだったり、上滑りしている印象を受ける。たとえば劇場法には「心豊かな社会」とあるけれど、力強く何かを言っているようでいて、実のところ非常に漠然としている。

実際に制作をしている僕らが、本当に実感のある言葉を自分たちで組み立てて、舞台芸術の持つ価値や公共性を語っていくこと。訴求力のある言葉を社会に発信し、舞台芸術の価値を上げていくことが、非常に重要だろう。そこを今回の勉強会のテーマにしたい。

ON-PAMの2015年のレポートより「ON-PAMの特性、舞台芸術の公共性について」
・第1回テーマ委員会 2015/4/6
「制作者とアーティスト、その関係性を問い直す」(東京)  (会員のみ閲覧可能・要パスワード)
・第1回企画委員会 2015/4/27
「これからの公共劇場で、私たちは本当のところ何を作りたいのか?」(静岡)
・第2回テーマ委員会 2015/6/20
「公立劇場の制作者」の現在地 ~行政と表現のはざまにて~(京都)
・第3回テーマ委員会 2015/10/2
「制作者とアーティスト、その関係性の未来」(東京)

塚口:2015年のテーマ委員会のテーマは「新しい制作者像」だった。「我々が何者であるのかという問いについて一年かけて議論が積み上げられ、次のような制作者の役割や定義について話されていた。

・制作者は多様である。(アーティストと寄り添う形でやっていく制作者、公共劇場、民間劇場も含めた劇場で働く制作者、フェスティバルを企画する制作者、中間支援、フリーランス、など)
・制作者は芸術がどこに届けられ、どのような価値を発揮するか自体を考えていく専門家。
・制作者は同時代における舞台芸術の価値そのものを創造、発見、再定義する仕事もする。
・公共サービスではない、舞台芸術の純粋な公共性を明文化し、観客や行政など、ある対象に対して舞台芸術そのものが持つ価値を伝えていく。そして舞台芸術は公共財であることを顕在化させ、認知づけをさせていく制度、システム、インフラ作りを担うのも制作者。

2015年に行われたシンポジウム等で語られた「芸術の公共性」や「芸術そのものの価値」にまつわる議論を、いくつか紹介する。SCOTの制作者、重政良恵さんは鈴木忠志というアーティストに寄り添い、そのビジョンを具現化してきた。鈴木さんが水戸芸術館や静岡県舞台芸術センターの立上げ時に成し遂げたことは偉大であり、では、我々はこれから何をすべきなのか。東京オリンピックが開催される2020年を控え、我々は日本の舞台芸術とは何なのかを2020年に新しく問い直せる世代なのかもしれない。

韓国光州のアジア・アーツ・シアターで行われたON-PAMサテライト・ミーティングの時、precogの中村茜さんから、アジアでは、自国では自分の作品を上演できないアーティストは少なくなく、アジアのフィールドに国際的な場を必要としているアーティストが沢山いることに気づいたという発言があった。歴史的、または現代的な社会的背景を背負った表現、言論空間、表現空間を作り、社会を映し出していく。その役割を果たせることが、舞台芸術そのものの価値のひとつであるとわかる。

別の会では、制作者の役割について考えた時、アーティストと寄り添って作品を作っていくのは大前提として、どのような人材が必要かという話があった。現場を知りつつ、経営的な視点から運営を見られる制作者。ある種の行政ロジックの翻訳者として機能する制作者、法律なども読める制作者。舞台芸術そのものの価値を伝える媒介になったり、翻訳者になったりもする、ということが挙げられた。このように制作者の仕事を並べることはできるけれども、それをソリッドに表現する言葉やもしかすると資格のようなものが足りていない。愛知県芸術劇場の唐津絵理さんによると、同劇場では舞台芸術担当の制作者も学芸員の資格を取って、専門家であると見なされている。このように制作者の専門性を学芸員的な資格で表現するのか、それとも他の方法を取るのか。どうやって行政の人たちや、一般の人たちに認知してもらえるかは課題のひとつ。

一方で危険だと思ったのは、「公共」という言葉の濫用。作品がどのような公共性を持つかを念頭に置いて、企画書を書き始めるなど、作品が社会にとってどういう役割を持つかを、一番はじめの段階から考えるようになった。それは良いことである一方、「公共サービス」と混同し、国や自治体が何を望んでいるかを考えるようになると、本来の目的とずれが出てくるのではないか。

宮城聰さんの発言で、「プロデューサーという仕事を専門職にした場合、『こういう企画を出せばお金がついてくるだろう』『たくさんの劇場から手が上がるだろう』もしくは『企画書が否定しがたい』という考えに傾くと思うが、そういうものは長続きしない」とあったが、プロデューサー(制作者)の定義が曖昧なため、共通認識がなく、誤解が生まれることもあるのではないかと、懸念する。制作者の定義もそうだが、今やろうとしていることの公共性や舞台芸術そのものの価値に、常に立ち戻れるような定義や意識が必要だと思う。

助成金と“企画書演劇”

奥野:宮城聰さんは「戦時中のドイツでは、ナチスドイツのイデオロギーを伝えるために、演劇がすごく利用されてしまった」という話もされていた。たぶん日本でも同じようなことがあったと思う。また、いかにも“企画書演劇”のような作品を観た時、僕自身もそういう風にならないように気を付けなきゃと常々思っている。

A:東京から移住してみて感じるようになったことだが、地域に資する芸術・文化という考え方は、ややもすると実演家も制作者も、作品創作をオーダーする自治体なり広告代理店なりのオーダーに沿う形であったり、期待を斟酌してしまうという意味で、危険だなと感じるようにもなった。「アーティストの自発的な表現」、「芸術そのものを目的にするべき」と、強く思う。(今住んでいる地域には)自発的に自身の視点で社会と対峙し、表現方法を開発するという意味でのアーティストがいないというのが大きな実感。芸術そのものが目的ではない。活動を継続していくために、助成金に結びつきやすくなっている。行政や公共性にコミットしていく力が非常に強い。ときとして助成金制度はない方がいいんじゃないかと思うことさえある。

奥野:舞台芸術が持つ価値を僕らがきちんと言葉にできなかったら、助成金出す側がもっと自分たちの論理に引き寄せて、「こういうことをしてくれるなら、助成金を出しますよ」という姿勢になる。そういう風に、逆転してしまっているかもしれない。

B:助成金申請書類を提出すると、書類を審査する側(お金を出す側)が作った基準に照らして「公共性あり/なし」と判断される。でもそれとは違う公共性の軸もたぶんあると思う。公的な資金が入るようになって、きっと公共性の範囲はだんだん広がってきている。お金を出す側の論理としても、「これも公共性だ」と広げる努力している。この枠が広がっていくのか狭まっていくのか。こちら側から「これも公共性ですよ」と言える糸口はあると思う。

舞台芸術そのものが持つ価値/肩肘張らないでいられる

橋本:「舞台」を取って「芸術」という言い方になるが、芸術は、「肩肘張りなさんな」という感じの存在であれば、いいと思う(笑)。世の中に白黒つけないでいられるスペース(聖域)がないと、きつい。作るほうも見るほうも白黒つけられないのがいい。正しいと思っていた価値観もある日、突然変わる。一人の人間の中でもどんどん変わっていく。だから、芸術は人のあり方そのものだと思う。

奥野:自分と考えが違うものを否定しない。そのことを受け入れることは非常に重要。

橋本:自分が仕事する上での話だが、語弊を恐れずに言えば、人に迷惑かけながらやりたいと思っている。先日やったプロジェクトは手続きや根回しが大変だった。なぜこの作品をやるのか、なぜこの場所なのかを、全く興味のない人たちに対して説明しなくちゃいけない。それ自体が作品を発表する行為の一部になっている気がした。話した結果、話した相手のほうにも何かしらの変化が起こるかもしれない。当たり障りないようにやっていたら、(作品は)なかったことと一緒になる。わざわざ作品作る人がいて、それを発表したいと思う以上は、ちゃんと世の中にあったことにしたい。

橋本の意見に対して
・多様性を受け止めてもらえると信じているからできることでは? 東京、関西などの都会では感じなかったが、いま住んでいる地域では孤立する恐れを感じる。
・同質性が高い、許容範囲が狭い地域においては、交渉者の人柄によるのでは。
・人柄の問題に終わらせてはいけない。鑑賞者から芸術への理解や共感を得るためには、制作者が作品を理解し、その価値を言葉にする必要がある。
・作品を受け入れられない人の話を聞く努力を、我々が怠っているのではないか。大多数の人々に対して自分の方が不寛容なのではないか。説得しに行くことで会話が生まれる。そういう時間、空間、機会を生み出す必要がある。
・舞台芸術そのものの価値は、世界や今ある前提を問い直すようなものと考えていた。その先にあることとして、問い直しながら他者と話をするのも大事。申請書を行政に持って行ったり、観客と向き合ったり、突き進めると社会の闇が浮き彫りにされていく。諦めないで関わっていくことが、より良い社会に繋がっていくのではないか。
・話し合いを継続することが大事。舞台芸術に限ったことではないが、1度、2度といわず根気よく実績を重ねていけばいい。

武田:ON-PAMの提言を考えていく過程で舞台芸術それ自体が持つ価値を考える時、同時代の人たちに広く共感される議論をしていったほうがいいと思う。だから「肩肘張らずにいられる」のは結構理解できるキーワード。犯罪行為すれすれの模擬をやってみたいとか、平安神宮が燃えている瞬間を作り出してみたいとか、人間はいろんなことを夢想して、それをやってみたいと思うもの。芸術はそういう「遊び」なんだという感覚は広く共有できるのではないか。

たとえばON-PAMは別にやらなくても、誰も困らない。そもそも芸術文化もそうじゃないか。現実的には「芸術は役に立つ、公共性がある」と説明するのが僕らの役割だけど、単純に楽しいことや野蛮なことをしてみたいという思いを、実現できるスペースや時間を作っておくことが、舞台芸術を存在させることにおいて、とても大事。ON-PAMは現代演劇やダンスを前提とした議論になりがちだがバレエ、オペラ、伝統芸能なども含めた舞台芸術に対して、広い社会から向けられている目線を意識すると、これぐらいピュアなことを言語化するのもいいと思う。今の社会が厳しいだけに。

スポーツ、音楽イベント等と舞台芸術の違い/鑑賞人数の大小と空間性

武田:芸術は人々の欲望や普段のルールから抜け出すことを具現化する役割がある。舞台芸術は、そういった価値観や空間を組織すること。一般社会や今ある既存のルールのもとでは見られないもの、過ごせない時間や空間を味わえる。そこではヒエラルキーはない。街でやっても劇場でやっても、肩肘張らずにいられる空間、時間が組織されていて、観客である限りにおいては誰かが偉いわけじゃないことが保障されている。その中で何かものを感じたり考えたり、一緒に見たりできているのは、とても大事なこと。その空間があることに価値があるかもしれない。

奥野:まとめると、立場や所属組織を脱ぎ捨てて、一個人として純粋にその作品と関係性を結ぶことができる時間と空間が保障されていること。それが、舞台芸術の持つ価値ということですか?

橋本:たとえば近代スポーツには勝ち負けがあり、観衆は敵味方に感情移入して応援するよう方向づけられているという、ある種の政治的な力学で駆動されている。でも作品の美的価値そのものは白黒つくものではないから、そういう力学は本来ない。(意図的に感情移入を促すメロドラマの「政治的」ドラマツルギーはあるが。)同じものを観ても個々人の意見は全く違う。それを共有できる場所を実社会に提供できることに、すごく価値があるんじゃないか。色んな人が集まって、色んな意見を共有できる場所があるのが芸術の価値。場所によって作品のコンテクストが変わるのは、作品自体の価値の話。

C:公演の制作をしていると、お客さんが突然騒ぎ出したらどうしようと考える。だから逆に、なぜお客さんは黙って見ててくれるんだろうと不思議になる。大衆演劇だと違うかもしれないけれど、演劇だとだいたいお客さんは1~2時間黙って見ててくれる。それがスポーツ観戦やパーティーとの大きな違い。舞台芸術を見る楽しみは、たぶんサッカーや野球を見る楽しさとは違うんじゃないか。

武田:空間に人が大勢いることの重要性はある。でもPort Bの作品のように一人で鑑賞する意義もある。参加者10人のツアー演劇もある。作品自体が世の中に放たれて、それを体験した人は10人かもしれないし、2万人かもしれない。少なくともそのアーティストは一定の時間、空間を作りだして、それを見る人、体験する人に送り届けている。スポーツ、美術、音楽と舞台芸術の違いは空間と時間を組織することだと思う。

舞台芸術の特性:時間・空間・身体性、社会からの遮断

高野:SPAC芸術総監督の宮城聰さんがSPACの中高生鑑賞事業のパンフレットに必ず載せている文章がある。
以下、引用。
「(略)人間はいまも昔も孤独です。だから少しでも人とつながれるように、一生懸命ことばとからだを研ぎすましてきました。それが演劇です。
ここに書かれている「言葉と体を研ぎ澄ます」というのが、演劇の特性だと思う。

奥野:舞台芸術自体の持つ価値として、身体性が非常に重要だと思う。目の前に体があることのリアリティはすごい。特にこれから先、テクノロジーが発達するにつれて、舞台芸術でしかできなかったことが、どんどんなくなっていく。でもテクノロジーによってメディアが溢れて、どれだけリアルな3D映像が目の前で展開されても、人間は「実感」が持てない。例えば今現在シリアで起こっている酷いことも映像としてしか見られずリアリティを共有することができない。コンテクストは勉強すれば共有できるだろうけど、それにも限界がある。その限界をブレイクスルーする力を持つ芸術は、舞台芸術じゃないか。

バーチャルリアリティは日本語で「仮想現実」と訳されているが、実際には「実質現実」。本当には体験していないけど、実質的に体験と同じことを得られるのがバーチャルの意味。将来的に舞台芸術はバーチャルリアリティで体験できるようになるかもしれない。同じものが見えて、同じ音が聞こえて、同じ匂いがする空間をバーチャルで作ることができれば、それはリアリティを持つことができるんじゃないか。じゃあリアルって何なのか? リアルのリアリティと、バーチャルのリアリティの差は絶対にある。舞台芸術に本質的に価値があり、将来残っていく可能性があるとしたら、僕はそこにしかないと思う。リアルなリアリティがどこにあるのかを、僕らはもっと探求していかなければいけない。

川口:場所や他者との直接的な関係が、たとえばバーチャルリアリティが表現する戦争よりも、想像力をより喚起して、身体に刺さるような体験に繋がるかもしれない。身体がそこにあることの説得力、魅力は、舞台芸術だけでなく音楽ライブやその他のイベントにも当てはまる。物語性がどういうところに宿るかのかが、舞台芸術の特性を語る上では見落とせないのではないか。

藤原:誰と、どこで、観るか。作品をどこで物語るか。劇場なのか外なのか、どんな場所なのか。場所によって物語では完成しない何かが生まれることがある。サイトスペシフィックな作品は無論、ツアー公演で異なる地域で上演する場合も含まれる。作品の特性だけでなく、観客の考えの中に生まれるものもある。世界の、どんな場所で、いつ上演されたのか。集まった場所が観客の思考に影響を与える。場所が変わることで観客が変わるから、作品の持つ価値が変わる。無論、アーティスト側にも作品にも影響する。その場でしか生まれない出来事が繰り返されていること自体が、舞台芸術の普遍的な価値ではないか。特にこれからその意味が出てくるんじゃないか。

塚口:ライブの作品は毎回そこに集約される。ライブのすべてが、どこで誰と見ても、一緒じゃない。強度が強い。バラエティがある。同じものがない。再現性がないことがリアルなリアリティ。それが舞台の価値の1つ。

高野:「時間」がキーワードではないか。井上ひさしさんの言葉を引用する(ACM劇場発行「WALK(2002年)」のインタビューより)。
「僕はこの世でたった一つのユートピアがあるとすると、それは時間とともに生まれて、時間とともに消えるもの。つまり劇場の中にしかないと思うようになりました。(略)その瞬間だけは、私たちは時間を征服しているわけです。いい芝居が上演されている劇場で、お客さんが舞台と一つになって時間が終わるのをどこか惜しいと思いながら楽しくやっている、その瞬間が実はユートピアだったということが分かりました」。

D:観客として舞台を見る時の嬉しさは、客席に座った時、劇場空間全体の中の自分の位置を考えること。社会的な肩書きがない、フラットな状態で、ある席をいくらかで買う(無料の時もあるが)。そのスペースで、観客という社会性と、この空間の社会性を感じながら、自分がどの位置にいるかを見る。Googleの地図のように自分の後ろ側からや、上側から。芸術は白黒つけないグレーのスペースがあることに価値があるという話があったが、今はものすごく規制が強くなってきている実感がある。

美術の世界で政治的な作品をやることが黙認されない。そういう何かの枠組みに入れられない状態でいられることに幸せを感じて、よく客席の暗闇に座っている。映画は一つの画面に没入する形式なので、空間全体の中の一個人とは感じられない。舞台鑑賞では、舞台上と客席で構成された空間全体の中での自分のあり方を、社会としてとらえる。空間と時間が組織されているから、外の社会と違う時間が流れている。ある意味切断されている。その時に、非日常性の中で思考する時間、一旦日常を遮断して考える時間がある。

舞台は見ているより、考えている時間のほうが長かったりする。考えるために見に行くみたいなところがある。日常だとすぐスマートフォンに接続できてしまうが、客席では自分一人で考えるしかない。そういう時間を求めている。舞台芸術にしかそれはない。「グレー」は芸術の価値だけど、時間や空間で言えば舞台芸術ならではの価値だと思う。

E:今と違う明日を見せるとか、目から鱗が落ちるような体験は、舞台芸術に限らず芸術の価値だと思う。現状を更新、刷新し、新しいスペース、居場所が広がっていく感覚を作れることもある。固定化している息苦しさを軽減するものとして機能してほしい。豊かであってほしい。TPAMでもよく言われる多様性について。観客にとってすごくきついものや、分からないものも存在してほしい。それが許容される社会であってほしい。そういうものを既成事実にしていくのが芸術であり表現活動。

その他:
・公共空間で自分の立場を無化したい(立場、身分などを脱ぎ捨てたい)欲求が叶えられる。
・逆に、自分の立場や身分(ステータス)を認めてもらいたい欲求も高まっているから、今は個空間に閉じこもる傾向もありそう。
・舞台芸術の価値は日常の価値観を揺るがす刺激。時間や場所の実感は、劇場(会場)へ行くという、観客の自主的、具体的な行動にもあると思う。家で何かを見るのとは違う。
・サッカー、ラグビー、アイススケートの人気、アートフェス、2.5次元ミュージカルの流行、ハロウィーンの盛況など、人は今、集まりたい、一緒に盛り上がりたい、時間と価値を共有したいという欲求を実現している。
・身体性が重要であることには間違いない。でも、舞台芸術が身体だけの芸術ではないところにも、大きな可能性があると思う。
・舞台芸術の非常に重要な要素である時間、空間、身体性はキーワード。でも今後、それらを問い返すような舞台芸術も現れるだろう。
・その次の段階として、「芸術は価値観を相対化させる」というのがある。

ON-PAMが目指す未来を描くステートメント

奥野:ステートメントを作るにあたり、言及するのは舞台芸術の価値なのか、芸術の価値なのか。僕はON-PAMである限り、舞台芸術であることに特化すべきだと思う。他の芸術団体が言えるようなことを僕らが言っても仕方ない。将来こういう社会になって欲しい、だから「僕らは、舞台芸術はこういうふうに社会に必要だと思っている」という書き方があるのでは。人間にとって非日常は非常に重要で、僕は舞台芸術のもうひとつの価値だと思う。ルーティーンの生活をしていると、人間は思考停止していくし、同じような日常がずっと続いていくんだろうと思ってしまう。

また、自分が描いている未来に向かって社会を変えるために動いていくには、本当に「これが嫌だ、こういう社会にしたい」という切なる実感が要る。人間は心の底から「こうしたい」と思わないと、なかなか日常生活を変えることができない。つまり人間は何もしなければ、現実を肯定する、現状を維持する生き物だと思う。非日常に連れていかれて、今とは違う何か、今日とは違う明日、いつもと全く違う世界を見せられると、考えが変わったり、新しいビジョンが生まれたり、人生が変わったりする。

ものすごい衝撃をもって、人間の人生観や価値観をひっくり返すには、リアルが必要だと思う。バーチャルの世界ではできない。他の芸術、他の文化よりも、舞台芸術にその可能性があると思う。新しい価値観に触れたと思えるのが、舞台芸術の持つ重要な側面の一つ。だから制作者である僕らがどういう未来を描いているのか、どういう社会を求めているのかを提言することは、非常に重要なんじゃないか。

文化と芸術の違い/伝統芸能との距離

奥野:僕は芸術と文化ははっきり違うもので、芸術こそ未来を描いていくうえで価値があると思う。でも芸術と文化をどう分けるかは、皆でもうちょっと話し合って考えたい。

川口:文化は1人の個人が作るものではなく、集団的に形成しながら残ってきたものや、たまたま結果として受け入れられて残ってきたものである。文化は個人の意思で形成されるものではない。一方、芸術は、個人が、個人の内的な世界の表現として何かをやり始め、それが公共的な価値を後から有し、芸術として受け入れられる(受け入れられないものも含めて社会的な問いとして機能する)。今、より社会的な存在意義を認知させなければならないのは、芸術の方であり、僕たちのアドボカシーの対象なんじゃないか。

藤原:今の我々はどうしても伝統芸能のことをなかなか語れなかったりする。芸能に関して考える時間が持てると深まるのではないか。ON-PAMが求める未来像を語る時に、2020年の日本人の身体性を対象にするなら、伝統芸能との違いをどう言及するか。そういうことも重要になってくるだろうと思う。

「立ち止まることができる」という価値(ON-PAMも同様)

F:仙台で震災後に、地元のパフォーミングアーツのメンバーと「アルクト」という団体を立ち上げて活動をしていた。その時に僕らが掲げたスローガンは「他者を否定しない、自分を否定しない」だった。「肯定する」じゃなくて「否定しない」。今思うとそのスローガンがとても役に立った。本当に良かったし、機能した。結構、本質的なスローガンだったと思う。舞台芸術の価値は、敢えて言えば「立ち止まることができる」ということじゃないか。時間が切断されること、非日常な時間と空間を共有することに少し近しい、とてもポジティブな意味で。

奥野:立ち止まって考えることができる、つまり見つめ直すことができるということ。

塚口:そういう立ち返れるようなステートメントにしたい。

武田:現実は基本的に「前へ、前へ」の成長社会。その中で「立ち止まること」をポジティブにしていくのは非常に重要だと思う。ロームシアター京都の職員で今日は公休なのに目の前の雑務がいっぱいあるせいで、ON-PAMの会員が今日の勉強会にフルに参加できない現状がある。そういう日常の避難場所のようにON-PAMがある。僕はずっとそれに意義を感じている。時間のある人たちだけが集まるという必然性はありつつ、ON-PAMは存在している。

そのこと自体が芸術文化のあり方と共通している。ON-PAMは立ち返る思考の場所としてすごく重要だと思う。常に人が出て行ったり戻ってきたりする場所として、ON-PAMがあれればいい。ステートメントには、それと同じようなスタンスを力強く出せるといい。ピュアな姿勢に立脚しつつ、足りないところは、言葉を探していく。舞台芸術の価値とON-PAMの価値は並行するのではないか。そういう場所がないとバカバカしい日常になってく。そもそも舞台芸術は遊びみたいなもの。そういう「遊び」がある人生を送れてない人がたくさんいるから、今、余裕がなくなっているんだと思う。そういう社会じゃない、余裕のある、「心豊かな社会」を求めてる(笑)。

藤原:ON-PAMが目指す社会を記述するという未来志向の方向性と、舞台芸術、芸術が持つ「振り返る」「立ち止まる」という特性の両方が出てきて、その二つの関係にすごく重要な意味があると思う。

奥野:来年2月のON-PAMの総会までに、ステートメントの叩き台を作りたい。次の勉強会は、皆に具体的なステートメントを書いてきてもらって、それについて話してもいい。「ON-PAMが目指す社会」をテーマにしてもいいと思う。

執筆:高野しのぶ(ON-PAM会員)