会員提案企画「表現の不自由展・その後」をめぐって レポート

2019.9.2

2019年8月7日(水)に開催しました「会員提案企画『表現の不自由展・その後』をめぐって」のレポートを掲載します。

1.開催経緯、概要
この会は8月1日に開幕された「あいちトリエンナーレ2019」の中の展示のひとつ「表現の不自由展・その後」が、8月3日に展示中止となった事態を受けて、私(ON-PAM会員 奥野)が、3日の夜にON-PAMのメーリングリストにて呼びかけを行い、複数の参加表明を頂きましたので、改めてON-PAM事務局と相談の上、会員提案企画として開催させて頂きました。

当初は京都会場(ロームシアター京都会議室)およびオンライン参加のみでの開催予定でしたが、その後、東京会場、沖縄会場も加わり、最終的に予想をはるかに上回る75名ものみなさまにご参加いただきました。また、参加頂いた方はON-PAM会員や舞台芸術関係者のみならず、美術作家やライター、編集者、アーカイブに関わる方、学生、純粋なアートファンの方などなど、9割以上は面識のない方々で、参加されたみなさんもお互いにほとんどが初対面、という多様性に溢れた顔ぶれとなりました。

また、参加表明頂いた方には事前に私から企画意図と、当日時間の節約のために事前に確認して頂きたい下記のウェブサイト記事を共有させて頂きました。

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと―事実関係と論点の整理

あいちトリエンナーレ2019、国内外の参加アーティスト72組が声明を発表。「芸術祭の回復と継続、自由闊達な議論の場を」

2.企画意図・趣旨の説明
最初に奥野から会を企画した意図を説明しました。

・今回の一件が、表現の自由を脅かす非常に重大でかつ現在進行形のデリケートな問題であり、その重大さやデリケートさを前に、中々自分の思いや考えを表現できなくて苦しい状況がある。

・そこで、まずはみんなで集まって、素直に今回の一件をどう感じたのか、いま何を考えているのか共有する会を持ちたいと思った。

・なので、今日の会は何か一つの方向に収束するような議論がしたいと考えているわけでも、何か声明を出そうとか、表現の自由を守れ!と気勢を上げるようなことを考えているわけでもない。

・もうひとつ、このような会を持ちたいと強く思ったきっかけは、今回の件は今の日本社会において、自分と異なる考えや価値観を持つ人たちとの対話や議論が難しくなっていることが大きな原因の一つだと思ったから。

・普段、なかなか接することのない異なる価値観やバックグラウンドを持つ人たちといかに丁寧に対話できるか、そういう場をどれだけ持てるか、ということが、今後社会に替えていくのに本当に必要なことだと考えた。

・なので、今日の会では、いろんな立場や考え方から、多様性のある意見が出てきて欲しいと考えている。また、自分の考えとは違っても、その人がなぜそのように感じ、考えたのか、丁寧に掘り下げていくような時間になって欲しいと思っている。その中で逆に対話の難しさが浮き彫りになるかもしれない。しかしそのようになったことも、今後の教訓として次に活かしていきたいと考えている。

3.現地を見てきた方からの報告
続いて、美術ライターとして7月31日からプレスツアーに参加し、実際に今回の一連の騒動を近くで見てきた島貫泰介さんからお話をお伺いしました。

・8月1日のあいちトリエンナーレの開幕に先立ち、7月31日に開催されたプレスツアーに参加した。参加者は150名ほどいた。

・メイン会場のひとつである愛知県芸術文化センターに「表現の不自由展・その後」の展示があった。それ以外の展示作品数も多く、津田芸術監督らの案内のもと、各作品5分程度で見学。

・31日のプレスツアーの最後に芸術監督やキュレーターが揃って記者会見を行った。その際、質疑応答の時間の半分くらいが「表現の不自由展・その後」についての質疑応答にさかれた。

・その記者会見の中でも、「表現の不自由展・その後」をめぐってトラブルが起きた場合の対応についての質問もあった。

・記者会見を受けて、いくつかのメディアが夕方には「平和の少女像」が展示されていることを報道した。ただ、その時点ではまだそこまで大きな話題になっておらず、Twitterなどで検索しても10人程度が「平和の少女像」について発言している程度だった。

・翌8月1日はバスにてプレスツアーが行われた。津田芸術監督からバス車内で既に60件ほど抗議の電話(その他にメールも50通ほど?)がかかってきている、ということがプレスへ向けて語られた。

・プレスツアー後、いったん別取材で東京へ。3日に再び名古屋へ。会場は朝から混み合っていた。「表現の不自由展」が中止になるのでは? という憶測を受け、観客が殺到しているような印象を受けた。

・舞台作品を見終えた17時半頃、SNSにて「表現の不自由展が中止に」という記事を見た(発表そのものは16時半だった模様)。

・現場へ行くと「表現の不自由展は終了しました」という立て看板。会場の中にもまだ観客がいた(中止発表前に並んでいた観客にのみ見せていたのではないか?)

・展示の中止を受けて、マスコミから写真撮影の希望が来ている、とのことで、閉館後に取材対応するという話をトリエンナーレPR担当者より聞く。

4.各会場、オンライン参加に分かれての対話
その後、京都会場は12名ずつ3チームに分かれ、東京会場、沖縄会場、オンライン参加者にてそれぞれ対話する時間を1時間半程度もうけました。最後にそれぞれのチーム・会場にてどのような話があったか、発表、共有する時間をもちました。下記にそれぞれの会場にてどのような話があったのか、非常に多様な意見が噴出しましたので長くなりますが、一部を抜粋、箇条書きにてレポートします。

※以下のレポートは、あくまで各会場内で行われた対話の一部を奥野が解釈し、要約・抜粋したものになります。前後の文脈が不明であったり、共有されている知識や情報の前提が異なるために、レポートだけを読まれた方の中に、誤解等が生じる可能性があることを懸念しております。本レポートは、その内容の正確さや論理的な正しさを詳細に詰めていくものではなく、当日会場では活発な議論・対話が行われ、その中でこれほど多様で新鮮な意見が多数出た、その一部が要約され、抜粋されている、ということを念頭にお読みいただければ幸いです。当然、当日発言された方にも、今回レポートをまとめました私にも、誰かを傷つけたり、攻撃する意図があるわけではありません。もしそのように感じられる方がいらっしゃいましたら、丁寧に説明させて頂きたいと思いますので、ご一報ください。

4-1.京都会場
・展示自体、そもそも挑発的な内容であり、より公的な場(美術館)にふさわしい形にできたのではないか。

・もともと入り口にカーテンがかかっており、見たくない人は見ないでも済む形になっており、配慮はされていた。

・ネットでの感想等を見ていると、今回の展示によって「侮辱された」と感じた人が多くみられたが、そのような感覚はどこから来るのだろうか?

・「表現の不自由展・その後」というタイトルやくくり方自体が作品の政治利用ではないか。主張が先に立つ展示手法であったと思う。

・みな、実物を見ないで議論しており、どこまで作品に真摯に向き合っているのかわからない。

・河村市長が「自分が多くの人の意見を代弁している」と言っているのは怖いと感じた。大阪の松井市長から河村市長へ直接連絡があったとのことであり、維新の考え方が非常に強く出た事件だと思った。保守的・体制的であることにシンパシーを感じる人が増えてきているのではないか。

・911以降、表現の自由自体が制限される中でおこった事件と捉えている。表現をしにくい、息苦しい状況がある。

・このような事件が起こっても実際には無関心な人が多数を占めている。仕事や家庭に追われており、真面目に議論をする時間があまりにもないのではないか。

・憲法を「公益に反しない限り…」と改正すると、今回のような事態が頻発するようになるのではないか、心配している。

・日本自体が物分かりの良い社会になってしまっている。議論をしない、断れない、自由が苦手な人が多くなっているように思う。

・関係者の外側に声が届かないことについて、リアリティを持つことが重要だと思う。

・このままだと「表現の自由よりも安全の方が大切」となりかねない。なぜそれではだめなのか、我々が説明できないといけない。

・物理的に表現の場をどう守っていくのかの議論も必要だと思う。

・お客様第一主義になっているが、断る、毅然とした態度で対応するための訓練等も必要ではないか。

・世間一般の人にとって劇場や美術館は普段行く場所ではない。それを前提にして考える必要があると思う。

・公金を使って作品を作っていくことに対する論理やロジック、法的な根拠を持つ必要があるのではないか。

・ネット上の意見を見ると、公金を使う以上、政府批判はすべきではないという意見と、むしろ自由であるべきという意見に分かれている。

・日本において公共=公立(行政立)となってしまっている。本来、公共はpublicであり、みんなのものであるべきだと思う。

・税金の議論になると、攻撃している側も税金を納めており、話が進まない。

・維新の会が公共の考え方自体を変えてしまっているように感じる。「みんなが喜ぶもの」が良いとなってしまっているのではないか。

・全国に議論が波及しており、いいきっかけとなったと思う。

・今後、芸術家が対立を回避するようになるのではないか。表現に対して自主規制が進む可能性がある。

・芸術家自体がもっと声を上げていく必要があるのではないか。

・もはや新しい芸術祭は日本では立ち上がらないのではないか、と危惧している。

・現代芸術が、単に評価の問題だけでなく、危険性もあるということが(政治家や行政に)認識された。

・これほど大きな文化イベントで事件が起こってしまい、どう挽回するのか考えないといけないと考えている。

・今回の事件について議論したり対話したりする交流の場が必要。あいちトリエンナーレの中で実施できないか。

4-2.東京会場
・実際に電話を受けていた方々がfacebookに投稿した文章を知人から見せてもらった。現場の人の理解としては、政治家の圧力というよりも現場の人々の人権を守るための処置だった。電話で名前と所属を聞き出して、個人を脅迫する。チラシにある電話がつながらなくなると、同じ建物の別の部署でも電話が鳴る状況。そこでは、たらい回しにされたという怒りもあり、「自分たちの払った税金でやっている」と高圧的な感じの電話が来た、75日間はとても耐えられなかった、という。それについて、準備や覚悟が足りなかったと非難するつもりにはなれない。

・参加者のステートメントには、継続するにはお客さんの安全を確保するのが絶対条件だが、そのうえで継続したかった、とあった。参加者の言葉も重い、と思った。どうしたら続けられたのかはわからない。

・河村市長や菅官房長官など政治家が、直接、内容が公金を使うのにふさわしくない、といったことをいっていて、そういうことをいうこと自体に問題があると思っている。ここ数年で政治家がそういう事情に直接に口をはさむことが増えていることには憂慮している。

・これまでも河村市長は問題のある発言をしていたが、これまできちんと責任を問うてこられなかった私たちにも問題があると思う。

・「表現の不自由展」のことはトリエンナーレがはじまるまで知らなかったが、河村市長の発言を見て驚き、その展示はおもしろいと思って応援する気持ちになった。中止になって残念。

・「表現の不自由展・その後」は、アートによって政治問題を取り込む仕組みで、その中で河村市長の発言は笑えるようなものになる。大阪で維新の会の橋下元市長が公務員の演劇活動を禁止した。7〜8年前。それが今の一件につながっている。

・表現の自由があやうくなる状況は感じていた。大阪で演劇の施設をなくしていくことに抵抗できなかった。今回の件は、演劇とか芸術とかはどうでもよくて、「平和の少女」像が日韓問題に関係しているというだけではないか。

・「平和の少女」像があった、というのが中止の主な原因だと捉えている。背景に従軍慰安婦に関することは絶対に許さないと考える組織があるのではないか。そういう現実のなかに来てしまった、という感慨がある。

・表現の不自由がある世界のなかで、表現の自由をどのように技術と知識で守っていくのかに興味がある。

・もう芸術祭は手に負えない、手を出さない方がいい、という経験になってしまった可能性がある。もう今後できないかもしれない。その責任を誰が取るのか、ということを、アートに関わる問題として、自分の問題として考えていきたい。

・公立の小中学校などにガソリンをまく、という脅迫メールの件が心に残っている。感覚的な話だが、ツイートの中に、イスに座るだけの少女像に成人男性が敵意を剥き出しにする、なんという国だ、という言葉があり、これも心に残った。

・「平和の少女」像は、もともとは、個人が国などにどう向き合うか、という意図で作られたが、それが何重にも政治利用されている。

・普遍性のある優れた作品を見たり展示したりする権利はかつてお金持ちにしかなかった。だが公金によってそれが万人に見られるようになった。一方で、公的な資金で行われる芸術がパワーゲームになり、政治利用されるようになった。トリエンナーレを公的なお金で続けることが、我々が守ろうとしている表現の自由を守ることになるのだろうか。

・表現の自由は国民を守るためにある。憲法は権力者から国民を守るためにある。いくら政府に表現の自由を訴えたところで、あいちトリエンナーレをつぶした側も一部の国民であり、難しいように思う。

・今回、一部の人の脅迫が通ってしまったのが問題。

・「表現の不自由展・その後」をあいちトリエンナーレに入れることは、キュレーターが実行委員会を選んでいるということで、いびつな構造になっている。他の展示と構造が違う。他の展示であれば、アーティストがキュレーターに抗議するという構造になるが、今回は逆にアーティストがおきざりになっている感がある。

・松井市長、河村市長などの話で気になったのは、個人のお金ならいいが、公金ではダメ、とう点。大村知事は公金でこそ表現の自由が守るべき、といって、対極的。youtubeなどで見ると、松井市長の側の意見や「表現の不自由展には反対」というほうが一般的にも感じられる。ネットでそういった意見ばかりを見ていると、感じ方はそっちに寄っていくのではないか。

・東浩紀氏が、設営の仕方として、警備ができない、ゾーニングができないという問題があったという発言をしていた。

・展示の仕方の問題をいうなら、コンテクストを変えなければいけなかった。従軍慰安婦問題、体制批判についても、批判がありうる形にしなければならなかったのではないか。

・政治と芸術の関わりの大きな歴史として、ナチスや抽象表現主義の政治利用など、自分の見方自体に幅をもたせるような仕方をしない限り、難しかったのでは。キュレーターなり作家なりが正しさを主張する装置として使ったというエゴについても論じるべきだと思う。

・東浩紀さんや津田さんは自分の名前で発言する人。だがキュレーターや私たち制作者はそうではない。正当性を主張するよりも、展示の技術を高めて、どのように、そういう形で使われないようにするかを考えなければならないと思う。たとえば芸術の政治利用の歴史を両方の立場から見せるなど。今回はまさに自ら芸術を政治利用してしまって、しかも負けてしまった。このダメージは大きいと考えている。

・どうストーリーをつくるかということもあるが、平和の少女像にしても、天皇の肖像にしても、批判している人たちの言っていることを示した作品ではない。だが、反対したい人の受け取り方で社会に流布されてしまうというのが、作る側にとってはつらいだろう。

・表現の自由と安全保障の兼ね合いが懸念される。ステートメントを出せばいいのか、何をすればいいのか。たとえば菅官房長官の発言で助成金が出ないことになったときに、それを批判するだけで良いのだろうか。

・菅官房長官の発言から、リアルに助成金の仕組みに影響がある可能性がある。この事実が確定する前に挽回する必要がある。

・今回は我々が暴力に屈した。今回に限らず、これまでそれが積み重ねられてきた。

・技術的な問題として、テロリストはコスト削減できている。実際に実行しなくてもいいのだから。逆側はコスト増で、本来かけるべきところにはかけられない。そのバランスを変えるにはどうすればいいのか。

・組織的なテロリストもいるかも知れないが、単に暴力的な個人の書き込みでも効果がありうる。

・有名人の書き込みがあって広がる。はじめに百田尚樹さん、高須克弥さんが書いたことで広がった。そこまでは取り締まれない。

・声明は一定数の人間がいるということを見せるためだけにもやったほうがいいと思う。

・抵抗という意味では、来場者数が減ると、暴力に屈した、ということにならないだろうか。こぞっていって応援するのがよいのではないか。

・作家が展示を取り下げる、ボイコットするというのも有効ではないか。今回は二人が取り下げた。アーティストの声明で「一致団結して応援」と書かれている。撤退した二人も署名していた。海外のアーティストがボイコットすれば、日本の美術界は必死に考えなければならない。

・公的な大規模文化事業の社会的信用が落ちたと感じている。その信用を回復していくという意識が必要ではないか。

4-3.沖縄会場
・展示中止された作品に対して、宣伝としての情報の切り取られ方がよくなかったのではないか。事態が大きくなっていった際も誤解も拡大したのでは。あくまで表現だったのに。説明不足を感じる。

・劇場や美術館は仮構の空間であり、文化装置。展示やパフォーマンスは、現実のどこかの場所で起きたことであっても、あくまでその再現や複製でしかなく、あるいはアーティストによる意図や文脈のある表現。客観的に現象や事物を見ることから物事を捉えなおすための場なので、表現の自由、言論の自由はより保障されなければならないはず。世間では劇場や美術館は単なる心地よいものを鑑賞するための空間としか捉えられていないのではないか。

・ここにいる人たちは、日頃からアートに触れる機会が多いため、表現の自由の大切さについてある程度共通の認識がある。しかし、アートに触れる機会の少ない人は前提が異なる。例えば義務教育の美術の時間などに、教えられる機会はなかったのではないか。

・対話の場が全国で広がった点は今回の事件のよい点。気軽にしゃべる今日のような場は有り難い。

・展示に対しての批判とは違う、美術展の受付への攻撃。クレームを受ける受付担当者ひとりの気持ちを考えてしまう。

・河村市長の“みんな”とか“多くの人”とかマジョリティを背負ったような言い回しに違和感がある。

・今回の件で騒いでいる人のなかで会場に足を運んだ人がいかほどいたのか、メディアによって切り取られた情報が一人歩きしたと感じている。

・展示がよくないと感じたらすぐに抗議をする人、彼らがなぜそんなふうに感じるのか、抗議するのか疑問。

・ソ連の音楽家はかつて表現を制限され、それが音楽史の空白となってしまった。そういうことは二度と繰り返さない、乗り越えて平和になったと思っていた。今、対立が見えない。自主規制しているのではないか、または物議を醸す表現を避けて無難な表現にとどめていないだろうか?

・作る人の立場から見ると、今回の件の中止という状況は、作品が人目に触れないという意味で、作品が壊されてしまったようなものではないか。

・表現の自由、言論の自由を守って向き合わないと、憲法が変わり、「公益に反しない限り」という条件付きに変えられるのではないか?それが懸念。

・良い悪い、のような対立軸でみるのではなく、議題設定が重要。閉じこもらずに多様性を感じることができるようにすることが重要だと思う。

4-4.オンライン参加者
・今回の一件について自分がスタッフとして担当していたらどう対応していただろうか、と思いをはせた。いつ自分の身に起きてもおかしくない状況だ、ということを考えた。

・自分の劇場にも芸術監督がいるのでその制度について深く考えることになった。政治、宗教などについて触れることが多く、発信のあり方に注意が必要な仕事だと感じていた。企画内容自体が良いと思っていたので、公金を使って実施したことに今回の問題の端緒があったのではないかと考えた。芸術監督の力量で黒ではなくグレーくらいに持って行けたのではないか、と思い残念だった。津田さんはネットで見ると偏った考えがあるように思ったので、芸術監督としてふさわしいのか疑問に思った。公私を分けられる方ではなかったのが残念だった。

・公金を使うことについては、公金を使うならば反日・反政府的な表現はすべきではない、という意見もあれば、公金を使うからこそより表現の自由は守られなければならない、という意見もあり、対立している。

・芸術監督の仕事の範疇がよくわからないので、そのことを追求することとは別に、実行委員長である県知事がどのような対応をするのが正しかったのか、という議論をしてもいいのではないか。

・脅迫を理由に中止になったが、作品を見たかった人との対話がなされないまま中止が決定されたのは残念だった。

・驚くほど早い段階で企画自体が中止となり唖然としている。知識人が、表現の自由に対して個人的立場で意見を述べたことに、多くの人が煽られたという印象を受けた。公共的な立場として、なんとか続けて欲しいと思っていた。会期中の再開は難しいと思われるが、理想はそこにあって欲しいと思う。

・現地には行けておらず、行った人やネットの情報で考えていたが、徐々に入ってくる内実を聞くうちに、見方がどんどん変わっていった。どんな情報を持っているかで、考えることが違ってくると思う。鑑賞した人、当事者、展示反対意見の人など、それぞれ観点が違うと思う。当初は侮辱的な展示内容と、それについての報道があったので、なぜそのような展示をするのか、と考えたが、そのような趣旨の展示内容ではなかったと後から知った。また、展示中止の知らせを聞いた時も、戦う覚悟がないのかと残念に思ったが、そうではなく暴力を受けてのやむを得ない対応だったと後で考えを改めた。

・一度難癖のついている作品に、もう一度同じことが起きている状況は変だと思った。公金が支出されると一旦決定されたのに、撤回されたことが変だと思った。(後出しジャンケン的)。決定を下した行政当事者自体が後から撤回することへの説明がないことに違和感がある。

・展示を見たかった。ドキュメンタリー映画『鳩は泣いている』が取り上げられていた作品が展示されるというので、観るのを楽しみにしていた。観る権利が奪われたということ、実際に見て考える機会が失われたことが残念。

・今回話題になった平和の少女像は実際に観たことがあり、チョゴリを着た素朴な少女像。あれを見て、どう感じるのか、センセーショナルに取り上げられるより、反対する人たちは実際に見て感じてほしいと思う。

・2015年の「表現の不自由展」を見た。趣旨から言って、一度否定されたものを再提示し、また「だめ」と言われた状況。展示に関わった方々の思いが表明される機会がなく残念だった。

・暴力(脅迫)を訴えた人が実際に会場に来てしまった場合どうしたらいいのか、という恐怖を感じたので、それに対しいろいろな方の意見を聞きたかった。

・お金を一番出している県が横やりを入れるのでなく、一番お金を出していない国が口出しするのはおかしいと感じた。

・全体的な感想としては、近年の傾向として右派からの攻撃は激しく、今回も作品をよく理解できないまま、ネット上で議論が一人歩きする状況を作ったことをどうかと思った。このような作品を扱うなら、事前にステートメントを出すべきだったと考える。当事者の作家たちからは芸術監督として現在信用がない。作家が置いていかれる形になった。しかしテロを防ぐということになると無理な話だったと思う。

・観に行く予定の前日に中止され展示を見られなかった。直接的な中止の原因は脅迫だったので、今後もこのようなことが繰り返されるようになった場合、当事者としてはどのように事業を遂行していけばいいのか、不安に思っている。

・あいちトリエンナーレは催事として会期を全うして終了する見込みだが、主催者のひとつとして今後も活動を続けていかなければならない県財団は今後、国などあらゆる文化行政(特に文化庁など公的資金を出す側)とどのように関係を維持していけばいいのか、(財団の)現場の方々の現在の感じ方は察するにあまりある厳しさがある。そのような立場では個々の表現の自由の主張が財団の未来に対して命取りになる状況も予見され、当事者でありながら発言を控えざるを得ない現状はとても辛いだろう。

・不自由展中止の次の日に会場に行った。ネットの情報では慰安婦像の他に天皇を扱ったものが問題だと感じたが、慰安婦像の問題が一人歩きした印象を受けた。倫理的な問題と表現の自由の関係が気にかかった。他の方がどう思っているのか聞きたかった。

・表現の自由は重要だが、表現の自由には全く制限はないのかという点は自分も気になる。その点の線引きは実は曖昧なのではないか。表現の自由を尊重して、人を傷つけてもいいのか、ということを考える。

・ネットの情報だけだと、偏りがあると思ったので、議論の場に参加し、他の方の意見や話を聞きたかった。論点が多すぎて混乱している。自分としては企画意図に対して、傷つけられたと考えた人たちのことを考えたいと思った。表現者には左寄りの考えの人が多いと考えたがそれは反対意見の人と会う機会が少ないからではないかと考えた。反対の立場の人に対する理解が乏しいと思った。両方の立場の人が顔を合わせて議論するのは難しいのではないかと考えている。ヘイトについても皆さんの意見を聞きながら考えていた。

・中止の報道がスピーディーになされたことに関して、発表されていない情報も相当あるなと感じた。イベントの警備や警察の関与も前もって言及されていたので、その上で中止されたということは、相当な脅迫や圧力があったと察した。アーティスト当事者の意見が反映されず残念という声も聞かれたが、それを凌ぐ危機があったと思われる。

・津田監督の対応は、本件に限らず、ジェンダーバランスや、裏方への対応に関しても今日的な観点で評価されるべきだと思っている。大村知事の対応も含め、実行委員会や愛知県の行政は対応できているように思っている。付随した議論が過熱し、真ん中が見えなくなっている気がするが、芸術に関する様々な観点が立ち上がるのはいいことだと思っている。

・河村市長、菅房長官の発言は表現の自由を完全に無視した検閲行為だと捉えたので、憤りを感じている。脅迫(テロ予告)に来場者やスタッフの安全がかかっているので、中止は妥当な判断でありちゃんと仕事をしていると感じた。

・そもそも、このようなことがテロ予告にまで発展してしまう日本社会になってしまったのは何故なのか、ということを考えている。

・中止の記者会見で「電凸(でんとつ)」という言葉を初めて聞いた。以前に関西地方の大学教員が政府に要望を出した際に反対派から攻撃を受け、職を失った状況があり、危機感を覚えた。他にも身分を明かすことによって危険にさらされる状況がはびこっている。

・展示は見られずネットで情報を得た。情報が多層化しているので、その複雑さに対応する力が必要と思った。現場に対する批判や暴力は、予想以上に酷いものだったと察した。

・表現に対して、寛容のパラドックスというものがあり多様性が認められる社会の中では、他のものを否定するものを投入すると規制の対象になるのではないかと考えた。様々なニュースが報じられる中、対話の場が不足していると感じたので、公共劇場はそのような対話の場として開かれていくべきだと感じた。

・「表現の不自由展」に出展している作家は、今回のような脅迫を個人・家族レベルで受けながら、活動をしてきた人々なので、彼らの意見も聞いてみるべきではないか。

5.まとめ
今回、お互いに初対面の方が多く、最初みなさん緊張した面持ちでしたので、中々議論・対話が進まないのではないかと心配していましたが、ふたを開けてみれば物凄い盛り上がりで、予定していた時間も超えてもみなさんまだまだ話足りない、という様子でした。面識のない方とのコミュニケーションには、もどかしさもありつつ、同時に自分には全くない新鮮な視点や考え方を与えてくれる、という意味で、とてもフレッシュな会になったと感じています。

みなさんが、自分と異なる意見であってもその意見を最後まで聞き、意図を理解しようと努め、丁寧に対話を進めていってくださっている姿を見て、大きな可能性、希望を見たように思いました。是非、今後もこのような機会を持っていきたいと考えるとともに、みなさんそれぞれが自分たちの手の届く範囲で良いので、気軽に日本各地でこうした場を作っていって欲しいと思っております。

執筆:ON-PAM会員 奥野将徳